シューベルトの宇宙【第8回】シューベルト交響曲 全曲演奏会におけるグルーヴ

シューベルトの宇宙【第8回】シューベルト交響曲 全曲演奏会におけるグルーヴ

2023.05.19 シューベルトの宇宙 連載 シューベルト

「合わせなくていい」

昨年九月のシューベルト交響曲全曲演奏会では、毎回指揮者の山田和樹と企画者の堀朋平のトークがあった。その中で、リハーサルに立ち会った堀が、山田がオーケストラに「合わせなくていい」と指示していたと紹介した。なるほど、この連続演奏会で感じたグルーヴ感はここに秘密があるのかもしれないと思った。
ひとりの指揮者が四つのオーケストラを指揮して、シューベルトの全交響曲を、レクチャーコンサート一日を挟んで、四日連続で集中的に演奏するという、世界に類を見ない企画。これが成功裡に終わったのは、企画が秀逸だったからだけでなく、作曲家、指揮者、オーケストラ、聴衆のケミストリーが生んだグルーヴによるものだったのではないか。

大阪フィルハーモニー交響楽団

シューベルト交響曲全曲演奏会 Vol.4 「永遠の高みへ」(2022/9/12) 山田和樹(指揮)、大阪フィルハーモニー交響楽団

クラシック音楽にグルーヴはあるか

グルーヴという言葉は、ジャズ、ファンク、ソウル、ロックの領域ではしばしば使われる。だが、クラシック音楽の領域ではめったに使われない。民族音楽学者S・フェルドとCh.カイルによるMusic Groovesという著作がある。

Music Grooves:Esseys and Dialogues

Music Grooves:Esseys and Dialogues S.フェルド、Ch.カイル(著) シカゴ大学出版局

これは、グルーヴについて二人の民族音楽学者が対話し、興味深い仮説を提示している本である。タイトルは両義的だ。grooveを動詞ととれば「音楽はグルーヴする」、名詞ととれば「音楽のグルーヴにはいろいろある」という意味になる。彼らの基本的立場は、グルーヴは民族音楽やポピュラー音楽にはあるけれども、クラシック音楽にはないというものだ。
グルーヴについては、彼らの他にもさまざまな語りがあるが、明確な定義がなされているわけではない。グルーヴは自明の感覚として使われている。分かる人には分かる、分からない人には分からないものとして。しかし、これでは先に進めないので、あえて説明してみよう。音楽を聴いていると自然に身体が動き出すときがある。拍子に合わせて首を振ったり身体を揺らしたりする。中には単純にタテに首を振る、身体がヨコに揺れるでは済まない、斜めに揺れるような落ち着かない動きになってくる音楽がある。しかし、なにか気持ちいい感覚が伴う。これがグルーヴだ。クラシック音楽の場合、どうしてもじっと聴くという規範に縛られて、動かないでいることが多いが、身体をリラックスさせれば、身体が動いてくる音楽もある。

「合わせる」ことと「ずれる」こと

フェルドとカイルによれば、グルーヴは参加しつつずれるところ(participatory discrepancies)から生まれるとする。つまり、複数の演者が音楽を生み出すプロセスに参加し、微妙にずれるところから生まれるのだという。これには、メトロノームが刻むような正確な拍子からずれる、複数の演者が合奏する際にずれる、という二つの側面がある。
彼らはクラシック音楽にはグルーヴはないとしているが、はたしてそうだろうか。民族音楽学者の山田陽一はクラシック音楽にもグルーヴがあるという議論をしている。特に『グルーヴ!―「心地よい」演奏の秘密』では、十人の演奏家へのインタビューを通して、クラシック音楽にもグルーヴがあることを引き出している。そして、そこでも「ずれ」がカギとなるポイントになっている。フェルドやカイルのクラシック音楽にはグルーヴがないという判断は、クラシックの演奏では皆で「合わせる」のが原則だが、民族音楽やポピュラー音楽では「ずらす」ことに主眼があるという見方からきているように思われる。もちろん「ずらし」すぎると音楽の流れは破綻する。実際の演奏は「合わせる」と「ずらす」の狭間で成立しているのである。

山田陽一(編),2020,『グルーヴ!「心地よい」演奏の秘密』 春秋社.

グルーヴ!「心地よい」演奏の秘密 山田陽一(編) 春秋社

ノリのベートーヴェンとグルーヴのシューベルト

シューベルト(1797~1828)とベートーヴェン(1770~1827)は同時代人である。しかし、ベートーヴェンに市民革命期の作曲家という性格を見出せるのに対し、シューベルトにはそれを見出すのは難しい。二十七年という年齢差は大きい。シューベルトが物心ついたころ、フランス革命の熱狂はもはやなく、特にウィーンは保守反動の牙城となっていた。
ベートーヴェンの交響曲の場合、少なくとも第一楽章の第一主題は、『田園』を除けば、みなきっぱりと前へ前へと進もうとしている。『英雄』第四楽章、『合唱』第四楽章では行進曲が現れる。ここでは「合わせる」しかない。「合わせる」ことにより盛り上がる「ノリ」の良い音楽である。
かたやシューベルトの交響曲の場合はゆるい。特に交響曲第三番の第一楽章、第四楽章、第五番第一楽章の第一主題は、浮遊感があり柔らかい(フニャフニャしている)。ここに「ずれ」によるグルーヴ感が生まれる余地がある。山田和樹が「合わせなくていい」と言った本当の意図はわからない。シューベルト以外の作曲家の曲でも同じことを言っているのかもしれない。だが、シューベルトの交響曲の場合、微妙に「ずらす」ことにより生まれるグルーヴ感が魅力になりうる。
クラシック音楽は、後期ロマン派以降、構造がより複雑になり、オーケストラの規模も大きくなり、まず縦に「合わせる」ことが重要になっていった。今日、日本には「合わせる」ことが巧みな指揮者は大勢いる。しかし、グルーヴ感を出せる指揮者は稀有な存在である。シューベルトと山田和樹は絶妙な組み合わせだったのだ。
以上、シューベルトと山田和樹との組み合わせに刺激されて、こんなグルーヴ論を書いてみた。あくまでも試論である。クラシックのコンサートでは、指揮者、演奏家は身体を動かしているのに対し、聴衆はまさに「聴く人」として身動きせずにそこにいる。よく考えれば奇妙な光景である。「グルーヴ」概念は、クラシックコンサートにおける聴衆の身体の復権に風穴を開ける可能性も秘めている。

【参考文献】
・Charles Keil & Steven Feld,1995,Music Grooves:Essays and Dialogues, Univ of Chicago.
・浦久俊彦・山田和樹,2021,『オーケストラに未来はあるか』 アルテスパブリッシング.
・山田陽一(編),2020,『グルーヴ!「心地よい」演奏の秘密』 春秋社.

ジュピター200号掲載記事(2023年5月11日発行)

プロフィール

メディア文化研究・音楽社会学

小川 博司

関西大学名誉教授。大のクラシック音楽好きのポピュラー音楽研究者。ライブ好きのメディア研究者。ユネスコ無形文化遺産に「風流踊」として登録された「新野の盆踊り」の音頭取りでもある。主な著書に『音楽する社会』など。