シューベルトの宇宙【第5回】<ruby>命がけの跳躍<rt>サルト・モルターレ</rt></ruby>としての歌 ─シューベルトの音楽の美によせて─

シューベルトの宇宙【第5回】命がけの跳躍サルト・モルターレとしての歌 ─シューベルトの音楽の美によせて─

2022.11.10 シューベルトの宇宙 連載 シューベルト 柿木 伸之

死の風景をさまよう音楽

小学五年生の時にシューベルトの作品に触れたのをきっかけにのめり込んだ音楽への断ちがたい思いを秘めながら、哲学を志すようになった学生時代、ある哲学者に憧れていた。二十世紀のドイツを代表する知性の一人、アドルノ(1903–1969)である。同時代の危機と対峙しながら、透徹した思考を哲学として、さらには音楽美学をはじめとする美学として繰り広げた彼に少しでも近づきたいと思っていた。そのような憧れを抱きながら研究の道を歩み始めた頃、アドルノの音楽論集『楽興の時』(1964年刊)の翻訳(白水社)を買い求めた。

表題がシューベルトのピアノ曲集から採られているこの音楽論集には、アドルノが25歳の頃に書いたシューベルト論が含まれている。その核心的な箇所で、小学生の頃から飽くことなく聴いた『キプロスの女王ロザムンデ』(D797)の第三幕の間奏曲の旋律のことが語られるのを前に、心の底を衝かれる思いだった。イ短調の弦楽四重奏曲「ロザムンデ」(D804)の緩徐楽章の主題として、ピアノのための即興曲(D935)のなかの変奏曲の主題として、このどこか懐かしい歌が繰り返し現われるのはなぜか。それは、シューベルトの音楽が絶えず死の周りをさまよっているからである。

譜例 即興曲(D935) 第3曲冒頭 自筆譜

譜例 即興曲(D935) 第3曲冒頭 自筆譜 Schubert, Franz, 1797-1828. Four impromptus for piano, D935 (op.142): autograph manuscript, 1827 Dec The Morgan Library&Museum(https://www.themorgan.org/music/manuscript/115649)

「〔恋に破れた若者の遺骸が横たわる〕小川や水車、さらには〔『冬の旅』第23曲の〕幻日の薄明の下に時もなく、夢のなかのように広がりゆく黒々とした荒野。これらがシューベルトの風景の徴であり、しおれた花はその哀しい飾りだ。客観的な死の象徴がこれらを出現させ、それとともに生じる感情は、この死の象徴が厳然とあるところへ還流する」

(アドルノ「シューベルト」※補足は引用者による)

シューベルトの音楽を死の影の下に浮かび上がらせる議論は、この一節で触れられる『美しい水車屋の娘』(D795)と『冬の旅』(D911)という連作歌曲を軸に据えるとき、たしかに説得的だろう。とはいえ、それを貫くさすらいは、垂直的な運動を含んだものとして、作曲家の情動から捉え返される必要があるのではないだろうか。その際、シューベルトの時代の子としての側面も見落とされてはならないはずだ。こうして彼の歩みを掘り下げて初めて、彼の音楽の美しさに近づけるだろう。ただしその美を、出来合いの美の観念に還元するとはできない。

さすらいの作曲家

行く宛も帰る場所もないさすらいとしてシューベルトが自身の歩みを意識し始めたのは、彼が独り立ちを試みた1816年だろう。十九歳になった彼は、求職が不首尾に終わった後、家を出て友人のショーバー(1796–1882)の許に身を寄せる。そのような時期に歌曲「さすらい人」(D489)が生まれたのは象徴的と言うほかはない。魂の故郷への憧れが否定され、荒地の歩みだけが残るこの作品に、深い内省が込められていることは、同じ時期に書き残された思索的な日記からもうかがえよう。

シューベルトは、書簡や日記のほかに、散文詩的なものを含む詩も残しているが、これらを読むと、彼が同時代の思潮と呼応しながら自分を見つめ続けていたことが伝わってくる。その過程は一方で、絶望を深めるものだった。そこには友人らとの別離とともに、1823年に発症した梅毒の苦痛も影を落としているにちがいない。加えて、国家の秩序の維持を優先するメッテルニヒ(1773–1859)の体制の下、友人と希求した自由を実現する道が塞がれてしまったことも無視できない。シューベルトは、「われらの時代の青春よ、君はもういない」と始まる詩「民衆への嘆き」(1824年9月21日付ショーバー宛書簡所載)を書いている。

もはやベートーヴェンのように解放への希望を力強く歌うことはできない。そのことを引き受けながら孤独を深めていたのだろう。二十七歳のシューベルトは、他者との関わりの根底をえぐる洞察を日記に書き付けている。

「他人の痛みを理解する者はいないし、他人の喜びを理解する者もいない!人は歩みを共にしていると信じてやまないが、いつもただ並んで歩いているだけだ。おお、これを知る者の苦悩よ!」

(1824年3月24日)

この言葉は、ロマン主義の象徴とも言うべき詩人ノヴァーリス(1772–1801)が四半世紀ほど前に記した言葉と重なる。

「われわれは互いをけっして完全に理解することはない。しかし、われわれは理解をはるかに越えたことをなすだろうし、またなしうるのだ」

(ノヴァーリス『花粉』より)

シューベルトはこの断章を知っていたのだろうか。そこには作曲家が苦悩に苛まれるなか、それでもなお追い求めていたものが語られている。知的な理解を越えて他者と結びつくことを、彼は愛と呼ぶだろう。

愛への希求、死と生

この愛をシューベルトは、『白鳥の歌』(D967)としてまとめられた一連の歌曲のいくつかが示すように、素朴さを失うことのない歌で語りかけることをやめなかった。その一方で愛の成就を、ノヴァーリスらも憧れ続けた無限の世界への帰一として追い求め続けた。このことを貫く祈りを、交響曲第七番ロ短調「未完成」(D759)の第二楽章の終結部にも聴くことができるだろう。こうした音楽の温かく、懐かしさを帯びた響きは、聴く者のなかに潜む願いを呼び起こす。しかし、それは同時に一抹の夢として、愛が地上の生では満たされえないことも暗示している。

このことに対する苦悩をシューベルトは、例えば弦楽五重奏曲(D956)の緩徐楽章の中間部のように、とめどない激情として響かせることもできた。他方で彼は、『美しい水車屋の娘』などが示すように、愛の成就がこの世では自然への帰一、すなわち死としてしかありえないことも引き受けていた。このことが音楽の風景を、死が刻印されたものとして規定していよう。だが作曲家は、アドルノが捉えた死の風景をさすらい続けた。それとともに愛と苦痛という対極にあるものが、歌のなかで表裏一体となる。そのことをシューベルトは、ある「夢」のなかで悟る。

「愛を歌おうとすると、それは苦痛になった。逆に苦痛ばかりを歌おうとすると、それは愛になった。/こうして愛と苦痛に引き裂かれたのだ」

(1822年7月3日に書かれた寓意的物語「私の夢」)

愛と苦痛のあいだをめまぐるしい転調とともに揺れ動きながら、また死と境を接しながら、シューベルトの音楽は生へ向かう。それは時代と人生への絶望のただなかで、狂おしく救いを求めることでもあった。アドルノの洞察を尊重しながら、ここにある命がけの跳躍に注目したい。そこからシューベルト独特の歌が響いてくるのだから。時にどこまでも突き抜けていく激しい運動を示し、時にあまりにも毀れやすい姿で漂うその歌は、聴く者を寄る辺のない自身の姿─『白鳥の歌』の「ドッペルゲンガー」かもしれない─に直面させながら、その奥底にある憧れに触れる。このようなシューベルトの音楽の美を、既成の「美」や「崇高」の概念を解体しながら探究することは、闇に包まれつつあるこの時代における歌の可能性を問うことに通じると信じている。

ウィルヘルム・アウグスト・リーダーによる シューベルトの肖像画(1825年)

ウィルヘルム・アウグスト・リーダーによる シューベルトの肖像画(1825年) Wilhelm August Rieder: Franz Schubert from Wikimedia Commons

ジュピター197号掲載記事(2022年11月10日発行)

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プロフィール

哲学・美学

柿木 伸之

専門は哲学と美学。20世紀のドイツ語圏が主な研究領域。著書に『ヴァルター・ベンヤミン─闇を歩く批評』(岩波新書)、訳書に『細川俊夫 音楽を語る─静寂と音響、影と光』(アルテスパブリッシング)などがある。西南学院大学国際文化学部教授。