シューベルトの宇宙【第7回】シューベルトとリヒャルト・シュトラウス――ドイツ歌曲の双璧

シューベルトの宇宙【第7回】シューベルトとリヒャルト・シュトラウス――ドイツ歌曲の双璧

2023.03.23 シューベルトの宇宙 連載 シューベルト

シューベルトの影響を受けている?いない?

冬のとある日、このエッセイの執筆依頼がやって来たときの驚きは、それは大変なものでした。普段からシューベルトの交響曲や歌曲、あるいは室内楽曲やオペラのいくつかを聴いて、その深遠さに身を震わせはするものの、住友生命いずみホールの音楽アドバイザー、堀朋平さんのすぐれた著作に目を通して勉強するのが関の山。そんな筆者がシューベルトのエッセイ? 幸い、内容は、シューベルトについてであればなんでもよい、とのこと。シューベルトを起点にしたドイツ歌曲の発展史のようなものを書けばお赦し頂けるだろう、という甘い見込みのもとにお引き受けしたわけですが、当然さっそく行き詰まる(涙)。筆者が研究対象としているリヒャルト・シュトラウス(1864-1949)ならば、シューベルトについてなんらかの言及はしているはず、という見込みのもと、てもとの資料をあたってみました。果たして、「シューベルトについて」という小文が見つかったのですが、この内容が予想外(以下大意、筆者訳)。

ノイエ・フライエ・プレッセ[訳注:ウィーンの新聞]から、フランツ・シューベルトについて、新年号向けになにか書いてくれという依頼が来た。音楽家に、音楽について書けというのか!でもここで断ったら、コルンゴルトの父親[訳注:音楽評論家のユリウス]に、次のウィーンの演奏会批評で何を書かれるかわからない。 あらためて考えてみた。旋律が思いつかないときは、しばしばシューベルトの歌曲をやまほど弾いた。特別な祝日には、ハ長調交響曲[訳注:グレイトのこと]を指揮した。だが、いちどだけ、本気で考えたことはある。現代の音楽家の交響曲、シューマン、ブラームス、チャイコフスキー、ゴルトマルク、ブルックナー、そのすべては、もっとも自由な創意工夫から生み出された、この神のごとき、偏りのないシューベルトの作品群にルーツがあり、その直系は、いまだ正統的な音楽と認められていないフランツ・リスト、そして不肖自分へとつながっているのだ。あとは、《さすらい人幻想曲》でライトモティーフの研究をしたことがあるくらい。それ以外はシューベルトについて、本当に、本当に考えたことがない!ただ崇拝し、演奏し、歌い、感嘆したのみ。
シューベルトはなんと幸せだったことか。己の才能の赴くままに書きたいことを書けたのだから。ハンスリックのように、初演前から楽譜を読み込んでコテンパンにやっつけるような批評家もいなかったのだから!
(Richard Strauss Betrachtungen. Atlantis, 1949, S.112-113.)

以上は、いつ書かれたか判然としない、鉛筆書きによる新聞用の原稿(の大意)なのですが、これが本紙に掲載された形跡がないので、結局執筆を断ったか、この原稿がボツになったか、いずれかなのでしょう(後日、父コルンゴルトに演奏会をけなされなかったことを願います……)。いずれにせよ、ドイツ歌曲史におけるふたりの音楽的共通点を、シュトラウス自身の言葉から探っていこうとする筆者のもくろみは、いきなり挫折したことになります。

世界観の類似

ならば、すこし軌道修正。本エッセイのタイトルが「宇宙」とある以上、ドイツ歌曲の「小宇宙」を形成するような世界観はどのように形成されたのか、を考えてみたいと思います。どうせ挑戦するなら『冬の旅』のような大作に。24曲全体がひとつの大きな宇宙だとすれば、各曲それぞれは小さな宇宙を形成しており、それは形式的にも証しづけられると思います。筆者が偏愛するのは、第4曲『凍りつき Erstarrung』から第5曲『菩提樹 Lindenbaum』へと続く流れ。第4曲のタイトルのドイツ語は訳しづらいですが、寒さでかじかんでしまうさま、と解釈できるでしょうか。そんなさまはハ短調のせわしない旋律で存分に描かれますが、途中、唐突に現れる変イ長調で歌われるのはまだ見ぬ春への憧れ、いわば非現実・想像の世界です。超有名曲、第5曲も、第4曲と似たような構造を持っています。有名なホ長調の旋律はゆったりと、すべてを包み込むような暖かさを湛えつつ描かれますが、やはり突然差し挟まれるホ短調で描かれるのは、同じ菩提樹が誘う死への入口とおぼしき幻視であり、それを直視したくない主人公は思わず「目をつぶって」しまうのです。

シューベルト
凍りつき op.89-4 D911(訳:堀 朋平)

雪の中 むなしく求める
あのひとの足跡
ここで彼女はこの腕に抱かれ
緑の野をさまよったのだ

地面に口づけしたい、
この熱い涙で
氷と雪を溶かして
地表が見えるほどに

花はどこにある?
緑の草はどこへ行った?
花々は死に果てて
芝はこんなに色あせている

では、いかなる思い出も
ここから持ち出すべきではないというのか?
この痛みが沈黙したら
誰が彼女のことを語ってくれるのか?

この心は死んでいるようだ
死んだ心に あのひとの姿が凍りついている
心がいつか溶けたなら
あのひとの姿も流れ去ってしまう!

シュトラウスご本人は前述のように「シューベルトのことなど考えたこともない」と言っておりますが、不肖筆者の観るところ、その作曲技法はちゃんと把握していたと思われます。とくに若き日に作曲したいくつかの作品には、その跡が顕著に見られるでしょう。ここでは作品10-8、『万霊節 Allerseelen』(1885年)を例に取り上げてみようと思います。本作も『菩提樹』よりは短いながら3つの節からできており、音楽的にもABAの三部形式を採っています。歌曲におけるABA形式というのはなんとも不思議な味わいで、1番、2番、3番と同じメロディで歌う有節形式にも、作品の内容に寄り添う通作形式にも聴こえる、実に微妙なバランスで両者を共存させることもできるのです。

リヒャルト・シュトラウス
万霊節 op.10-8(訳:広瀬大介)

献花台に 薫り高い木犀草をそなえ
咲き終わりの 紅い蝦夷菊を添えて
また 愛について語ろう
あのときの 五月のように

その手をこちらへ そっと握れるよう
ひとに見られても かまいはしない
せめて その想いのこもった眼差しを
あのときの 五月のように

どの墓にも 花が咲き薫る
一年ひととせにいちど 死せる者が解き放たれる日
この心に宿れ いまひとたび あなたとともに
あのときの 五月のように

毎年11月2日の『万霊節』は、前日の万聖節に続き、死者すべての霊を祀る記念日です。日本風にはお盆、といったところでしょう。この詩の主人公もお墓参りをするのですが、第1節と第3節は変ホ長調で風景描写が淡々と続くのに対して、ハ短調になる第2節は亡くなった伴侶に向かって語りかける内面の声。余人に踏み込ませぬ、とても内的な空間が拡がります。長調と短調を交代させるこの構造は、まさに『凍りつき』『菩提樹』で、非現実の風景が描かれたときの手法とそっくり。詩が描き出す小さなドラマを描き出しつつも、音楽は歌曲としてのバランスを失うことはない。しかも、「ひとに見られてもかまいはしない mir ist es einerlei」というあたりに添える音楽の機微など、後年のオペラを予見させる巧みさに満ちています。

歌曲において均整美とドラマ性を高いレヴェルで両立させ得た作曲家は、筆者の見るところ決して多くはありません。シューベルトは別格としても、シュトラウスは歌曲の「小宇宙」を描ききるレヴェルに肉薄していたと断じてもよいのではないでしょうか。ぜひ、読者の皆様もこれらの曲をお聴きいただいて、筆者の説がただの妄想か、ある程度の真実を衝いているか、ご判断頂ければ幸いです。

ジュピター199号掲載記事(2023年3月15日発行)

プロフィール

音楽学・音楽評論

広瀬大介

音楽学者、音楽評論家。1973年生まれ。青山学院大学教授。日本リヒャルト・シュトラウス協会常務理事・事務局長。著書に『オペラ対訳×分析ハンドブック シュトラウス/楽劇 サロメ』(アルテスパブリッシング、2022)、『もっときわめる! 1曲1冊シリーズ3 ワーグナー:《トリスタンとイゾルデ》』(音楽之友社、2022)など。『レコード芸術』など各種音楽媒体での評論活動のほか、NHKラジオへの出演、演奏会曲目解説・CDライナーノーツの執筆、オペラ公演・映像の字幕・対訳などを多数手がける。