音楽と、風景と、身体と「幽かそけき弱音に、それは宿る」

音楽と、風景と、身体と「幽かそけき弱音に、それは宿る」

2025.05.23 エッセイ 堀朋平エッセイ

幽かそけき弱音に、それは宿る

去る1月に「メンデルスゾーン──光のほうに」でご一緒した山田和樹さんとの思い出をもうひとつ。公演3日目だったでしょうか、プレトークでいっしょに舞台に歩みでる道すがら、ほんの数秒の間にマエストロがおもむろに言われました。「堀さんと温泉に行きたいなぁ」と。とっさにどう返せたか覚えていませんし──実現してもいないのですが──みなで一体になれる時空間を今まさに創造せんとする楽匠の口から「温泉」の語が発せられたのは意味深いぞ、とあとから気づきました。みなで体をとろけさせる、それは至高の空間なのですから。

音楽の目的はなにか? 自他の境界をとっぱらって一つになる悦楽が、究極の答えになりうることを歴史は教えてくれます。薄暗い自然を再現した中世ノートルダム大聖堂の音楽しかり、ゲルマンの幽玄な森を理想に音を溶解させていったヴァーグナーしかり。酒の力を借りて天のしらべに酔いしれる《第九》はいわずもがな(⇦サブカル・ファンなら、ここに『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画なども加えるにちがいありません)。

常識を超えた言葉づかいで人を異界に連れて行ってくれるものといえば、詩です。一篇の詩を読んでいて、わずか一単語で調子がぐいと変わる瞬間に震えることがあります。いわば詩人の真なる“声”が響きだす瞬間……。これを言語化した名著が、日本を代表する詩人・吉増剛造よしますごうぞうの『詩とは何か』(講談社現代新書、2021年)。吉増のいう「繊細な無数のひだが震えているような声」(184頁)とは、堂々たる音ではない。思わず耳をそばだてずにはいられない、幽けき弱音のことでしょう。

思えば、これは当ホール最大の美点のひとつ。弱音を焦点にした音楽づくりを、私もたびたび目撃してきました。最近だと、昨年末のランチタイム・コンサートにお呼びしたバリトンの大西宇宙さん。ブラームス《子守歌》のひとふしに囁くほどの(リハーサルでは隠していた)小声を入れることで、眠り=死の刹那をホールじゅうに広げてくださいました。あるいは3年ほど前ですが、川口成彦さんは、当ホール所蔵のフォルテピアノについている特殊装置(モデレーターといいます)を駆使して、ショパンの夜想曲(作品15-1)を最弱音で紡がれました。しかも幕開けの、しょっぱな第一音で。

幽けき弱音の魅力を知ったら、ちょっとクセになること請け合いです。

ジュピター212号掲載記事(2025年5月15日発行)

プロフィール

Tomohei Hori

堀 朋平

住友生命いずみホール音楽アドバイザー。国立音楽大学・九州大学ほか非常勤講師。東京大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。『わが友、シューベルト』(アルテスパブリッシング、2023年)で令和5年度芸術選奨文部科学大臣新人賞(評論部門)受賞。著書『〈フランツ・シューベルト〉の誕生――喪失と再生のオデュッセイ』(法政大学出版局、2016年)、共著『バッハ キーワード事典』(春秋社、2012年)、訳書ヒンリヒセン『フランツ・シューベルト』(アルテスパブリッシング、2017年)、共訳書バドゥーラ=スコダ『新版 モーツァルト――演奏法と解釈』(音楽之友社、2016年)、ボンズ『ベートーヴェン症候群』(春秋社、2022年)など。やわらかな音楽研究をこころざしている。

公式X