シューベルトの宇宙【第3回】「菩提樹」は誘う

シューベルトの宇宙【第3回】「菩提樹」は誘う

2022.07.14 シューベルトの宇宙 連載 シューベルト 佐藤 卓史

「菩提樹」は誘う 佐藤卓史(ピアニスト)

旋律を発見する

かつてメロディーを書くことに情熱を燃やした時期があった。といってもジャンルはポップソングだが、恐れを知らずに「うた」と括ってしまえばシューベルトと同じようなことをしていたのかもしれない。シューベルトが音楽史上屈指のメロディーメーカーである、ということに異論は少ないだろう。

ほんの少しだけその道を目指した私の感覚では、よいメロディーは作ったり(make)、悩みつつ書いたりするものではない。かといって天から降りてくる、というようなものでもない。どちらかというと「発見する」というのに近い。空気中に元から存在する、見えない「メロディーの素」を、感性のレーダーを頼りに掴み取るのだ。そのレーダーの鋭い人が「メロディーメーカー」なのだと思っている。

その意味で、シューベルトがよくぞ掴み取ってくれたと思うのが『菩提樹』(D911-5)である。どこにも作為のない、昔からそこにあったかのような自然な旋律だ。フリードリヒ・ジルヒャーの編纂により、民謡としても広く歌われている。でも、もしシューベルトが掴み取らなかったら、この世界に『菩提樹』の旋律は存在しなかったのだ。

最初の4小節、旋律は属音Bから始まり、B-G#-Eと下行する主和音の分散和音と、E-F#-G#-A-G#-F#-Eと滑らかに上下行する順次進行のラインからなる。次の4小節も同じことが繰り返される。第9小節のアウフタクトから、今度はE-F#-G#-A-B-C#と上行したところを、主和音B-G#-Eの下行が押し戻し、F#で半終止する。最後の4小節では上行ラインの先で、思い切って上のEにジャンプし、そこからE-B-G#とやはり主和音をなぞって下行、そしてA-F#-Eと緩やかに着地する。少ない音数と限られた素材からできた簡素なメロディーだ。これこそ人類が発見した最高の名旋律だと信じている私は、「シューベルトの最高傑作は何だと思いますか?」という難しい質問をされたときには、素知らぬ顔で『菩提樹』と答えることにしている。

『菩提樹』 D911-5
Am Brunnen vor dem Tore,
Da steht ein Lindenbaum;
Ich träumt’ in seinem Schatten
So manchen süssen Traum.

Ich schnitt in seine Rinde
So manches liebe Wort;
Es zog in Freud und Leide
Zu ihm mich immer fort.

Ich musst’ auch heute wander
Vorbei in tiefer Nacht,
Da hab ich noch im Dunkel
Die Augen zugemacht.

Und seine Zweige rauschten,
Als riefen sie mir zu:
Komm her zu mir, Geselle,
Hier findst du deine Ruh!

Die kalten Winde bliese
Mir grad ins Angesicht,

Der Hut flog mir vom Kopfe,

Ich wendete mich nicht.


Nun bin ich manche Stunde

Enfernt von jenem Ort,

Und immer hör ich’s rauschen:

Du fändest Ruhe dort!

変奏有節歌曲

『菩提樹』といって思い浮かべるのは以上の第1節の旋律だろう。ジルヒャーの民謡版は旋律線に多少の変更を加えた上で、この第1節を繰り返して歌う単純な有節歌曲になっている。ミュラーの原詩は6連からなり、はじめの2連が第1節を形成する。そのまま続ければ、6÷2の3節できれいに終わる。

『菩提樹』D911-5

【譜例】『菩提樹』D911-5 第1節の旋律。緑の囲みは主和音の分散和音型、紫の線は順次進行を示す。赤の小音符はジルヒャーによる民謡版における改変箇所。(譜面筆者作)

しかしシューベルトはそうしなかった。第1節のあと、ピアノの間奏に導かれて第3連(第2節の前半、Ich musst’ auch heute wandern…)がホ短調に移旋して歌われる。ところが第4連(第2節の後半、Und seine Zweige rauschten…)ではまたホ長調に戻る。主音を共有する長調と短調の交替で明暗を表現するのはシューベルトの得意技だ。

そして驚きの展開となる。ピアノが突如轟音を響かせ、第5連(Die kalten Winde bliesen…)はそれまでと無関係の激しい身振りの旋律で歌われる。これを独立した節と呼ぶべきなのか、間奏のようなものと捉えるべきか。やがてざわめきが静まり、最終節では第6連(Nun bin ich manche Stunde…)が第1節と同じ旋律に乗せて2回反復される。最後の1行が変奏つきで繰り返されるところが実に美しい。

単純な有節歌曲ではなく、こんな複雑な構成をとったのは、もちろんテキストの内容に沿った音楽を指向したためだろう。昔の甘い思い出に浸る第1節は長調だが、夜闇に紛れて街を出て行く第3連は短調に転じ、突風が吹き付ける第5連には別に劇的な音楽をつける。シューベルトは、伝統的な有節歌曲(『野ばら』『アヴェ・マリア』等)と、節の枠にとらわれない自由な構成の通作歌曲(『魔王』『糸を紡ぐグレートヒェン』等)との中間にあたる、こうした「変奏有節歌曲」というべき形式を発展させていった。『ます』や『君は憩い』がこれにあたり、『冬の旅』の第1曲『おやすみ』も同様の形式をとっている。

水車屋と旅人

『冬の旅』は、『美しき水車屋の娘』に続くシューベルトの2作目の大規模連作歌曲である。詩の作者は前集と同じくヴィルヘルム・ミュラー(1794-1827)。シューベルトは雑誌に掲載された12篇の詩に目を留めて1827年2月に付曲したが、そのあとで全24篇を完録した詩集を入手し、未作曲の12篇に新たに曲をつけて「第2部」とした。だからミュラーの詩集の順序と連作歌曲『冬の旅』の曲順には相違がある。

作曲を終えたシューベルトは親友ショーバーの家に仲間たちを集めて試演会を行った。

ある日シューベルトが私に言った。「今日ショーバーのところへ来てくれ。恐ろしい歌曲集を歌ってあげよう。君が何と言うか知りたいんだ。僕はこれまでのどんな曲よりも打ちのめされたよ。」そして感動的な声で『冬の旅』全曲を歌った。私たちはその陰鬱な空気にすっかり呆気にとられ、ショーバーは『菩提樹』だけは気に入ったと感想を述べた。シューベルトはひとこと、「僕はこの歌曲集が他のどの歌よりも気に入っているんだ。君たちもじきにそうなる」と言った。
(ヨーゼフ・フォン・シュパウンの回想)

作曲者の予言通り、この歌曲集はやがて不朽の傑作として評価されるようになるが、一般には第5曲の『菩提樹』だけが抜群の知名度を誇っている、という点でショーバーの感想も的を射ている。

『菩提樹』のテキストに関する考察は枚挙に暇がない。ここで歌われているリンデンバウムはボダイジュとは別種の樹木であるとか、シューベルトが作曲にあたってモデルにした菩提樹がオーストリアに今もあるとか、「木陰で甘い夢を見た」というのは性的な含意があるとか、実は主人公は「愛の言葉を刻んだ幹」に首を吊って死んだのだとか、蘊蓄うんちくや深読みを挙げていくときりがない。ここでは『水車屋』との関連を指摘するに留めよう。

市門の泉のほとりに立つ菩提樹は詩の中で擬人化され、主人公に語りかける。「おいで友よ、ここにお前の安らぎがある」(第4連)。しかし彼は菩提樹の誘いに応じない。固く目を閉じ(第3連)、風で帽子が飛ばされても決して振り返らない(第5連)。そして街から遠く離れたが、今も菩提樹のささやきが聞こえる。「そこにお前の安らぎがあったのに!」(第6連)。

菩提樹が誘う「安らぎ」とは「死」の暗喩である、という解釈は、『水車屋』の主人公と「小川」の関係からも類推できる。恋に破れた若者は、心の友である小川に身を投げる。すると小川は言葉を語り始め、その水底には「冷たい安らぎ」がある(『水車屋と小川』)。

ミュラーとシューベルトの描く自然は「安らぎ」であり、それはつまり「死」と同義なのだ。悩める水車屋の魂はかくして自然の力で救済される。しかし『冬の旅』の旅人は救済を拒んだ結果、作曲者の友人たちをも震え上がらせたような残酷な旅を続けることになる。美しい青春の思い出とともに死ぬか、絶望しながら現実を生きるか。

穏やかな外見の『菩提樹』は、曲集全体の重要なターニングポイントであるとともに、まもなく早世する作曲者が自ら用意した墓碑のようにも思えてならない。

ジュピター195号掲載記事(2022年7月14日発行)

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プロフィール

ピアニスト

佐藤 卓史

高校在学中の2001年、日本音楽コンクールで第1位。東京藝術大学を首席で卒業後渡欧、ハノーファー音楽演劇大学ならびにウィーン国立音楽大学で研鑽を積む。その間、2007年シューベルト国際コンクール第1位、2010年エリザベート王妃国際コンクール入賞、2011年カントゥ国際コンクール第1位など受賞多数。N響、東響、日本フィル、大阪響、広島響、ベルギー国立管などと共演。 レコーディング活動にも力を入れており、日本と欧州で多数のCDを発表。2014年より「佐藤卓史シューベルトツィクルス」を展開、ライフワークとしてシューベルトのピアノ曲全曲演奏に取り組んでいる。室内楽、作編曲など幅広い分野で活躍している。

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