私のバッハ、この1曲【第2回】 松井亜希(ソプラノ)

私のバッハ、この1曲【第2回】 松井亜希(ソプラノ)

2025.05.23 連載

ヨハン・セバスティアン・バッハの音楽は音楽史上で重要な存在であると同時に、アーティストたちにとってもさまざまな形で大切なものとなっている。それぞれどんな作品が好きで、また思い出があるのか、ぜひ知りたいところだ。本インタビューでは、多くの方が気になるその疑問を尋ねていく。今回は、『バッハ2025 綾なす調和』の特別企画である「レクチャー&コンサート」(7月25日)に出演される、ソプラノ歌手の松井亜希さんにとっての「この1曲」についてお話いただいた。

まず浮かんだのが《ミサ曲 ロ短調 BWV 232》です。私も参加させていただいているバッハ・コレギウム・ジャパン(以下:BCJ)の海外ツアーで合唱、ソリスト両方を歌ってきた思い出の曲なのです。この作品の合唱パートは非常に複雑で難しいです。歌唱が難しいのはもちろん、歌いっぱなしなので体力が必要です。また声部も最大8声部に分かれますので、それらをすべて理解してアンサンブルをしなければなりません。もちろん器楽の演奏もよく聴いて…と頭をフル回転していないと歌いきることができない作品なのです。ただ、その勉強を経て体の中に音楽が入っていたからこそ、ソロを歌うときには自分の演奏に集中する余裕が生まれたのかもしれません。バッハの音楽を演奏するにあたっては全体の理解というのが本当に大切なのです。

この曲は初めてのレコーディング、初めてのヨーロッパ・ツアーを体験した曲でもあり、大変緊張しながら歌わせていただいた記憶があります。ヨーロッパ・ツアーで初めて《ミサ曲 ロ短調》を歌ったときのことは今でもよく覚えています。ミラノの教会だったのですが、私の立ち位置は合唱の一番端で、すぐ近くにお客様がいらっしゃるというような状況でした。目線を下すと最前列の方と目が合うくらいの近さです(笑)。震えそうになりましたが、鈴木雅明さんの情熱的な指揮、一緒に演奏したメンバーの声や楽器の音色、教会の響きのすばらしさに包み込まれて集中して歌うことができました。またとてもうれしいこともありました。後日、“一番端の席で全体が見えなかったが、目の前で歌ってた合唱の女性の表情や雰囲気で音楽のすべてがわかりました”というメッセージが事務局に届いたそうです。秘かに「私のことかしら」と思って喜びました(笑)《ミサ曲 ロ短調》を通して異国の地、話す言語もちがうところで人と音楽を通してつながることができる、という体験を沢山してきました。

J.S.バッハ:ミサ曲 ロ短調/鈴木雅明&BCJ (BISRecords,2007)

現在ではバッハの作品を多く歌われているイメージが強い松井さんだが、彼女が実際に楽曲を歌うようになったのは大学を卒業してからだという。

はじめて歌ったのは、東京藝術大学の学部を卒業後、別科に入ってからでした。東京藝術大学バッハカンタータクラブに所属し、はじめてカンタータを歌うようになったのです。それまで歌うことはもちろん、意識的にバッハの声楽作品を聴くことはありませんでした。むしろピアノを弾いていたこともあり、鍵盤楽器のための曲を聴くほうが多かったですね。お仕事でバッハの声楽作品に触れ、歌っていくなかでどんどんその魅力にハマっていきました。いくら勉強しても、歌っても新しい発見があり、今も驚きの連続です。

松井さんにはもう一曲思い出深いバッハの楽曲についてもお話しくださった。

《ヨハネ受難曲 BWV245》です。この曲にもいろいろな思い出があるのですが、とりわけ印象深いのは2020年3月、BCJの創立30周年の一環で行ったヨーロッパ・ツアーに参加した際のことです。このツアーは全11公演の日程で行う予定だったのですが、新型コロナウイルスが急拡大した時期ということもあり、8公演がキャンセルとなってしまいました。最終的に、ツアーの最後の目的地であったケルンのフィルハーモニーホールで《ヨハネ受難曲》の録音とライブ・ストリーミングをすることになったのです。危機的な状況だからこそ、“やれることをやろう”、“チャレンジしてみよう”という意識が鈴木さんをはじめ、BCJのメンバー全員の中に流れていたと思います。そして実はライブ・ストリーミングのソリストは別の方が歌う予定だったのですが、前日になって急遽出演が難しくなり、私が歌わせていただくことになったのです。そのこと自体も緊張したのですが、空っぽのホールに林のように立つマイク、画面の向こうには誰かわからないけれど多くの人が聴いている…という状況が初めてだったので、かなりとまどいがありました。結果的に演奏はとてもうまくいきましたし、多くの方がご覧くださり、貴重な体験ができたことで、私にとって本当に大切な曲の一つとなりました。

ライプツィヒ・バッハ音楽祭ファイナル・コンサートは伝統的に聖トーマス教会で《ミサ曲 ロ短調》の演奏が行われる。

松井さんは7月のレクチャーコンサートではバッハの歌曲や追悼カンタータ《子らよ、嘆け BWV244a》のアリア、さらにファニー・メンデルスゾーンの歌曲を阪田知樹さんとの共演で歌唱する予定だ。

追悼カンタータのアリアは企画・監修の堀 朋平さんからご紹介いただいて初めて知ったのですが驚きました。実はこの曲、バッハが妻であるアンナ・マグダレーナの声を想定して書いたとされているのですが、《マタイ受難曲 BWV244》のアリア〈愛ゆえに〉のパロディなのです。聞き覚えのある旋律なのに突然違う歌詞が聞こえてくるので皆さんも当日驚かれるかもしれません。この曲をはじめ、バッハの作品を集めたコンサートの前半は『家庭のアンナ』というテーマがつけられていることからもお分かりかと思いますが、《アンナ・マグダレーナの音楽帳》に収められた歌曲もいくつか歌わせていただきます。作曲家としてのバッハの多面性を実感していただける内容になるのではないかと思います。後半で歌わせていただくファニーの歌曲もとても魅力的な作品ばかりです。お楽しみいただけましたら幸いです。

2023年6月ライプツィヒ・バッハ音楽祭にて

ジュピター212号掲載記事(2025年5月15日発行)

プロフィール

松井亜希

岩手県出身。東京藝術大学音楽学部声楽科卒業、同大学院音楽研究科修士課程および博士後期課程修了、博士号取得。在学中にアカンサス賞、同声会賞、三菱地所賞を受賞。日仏声楽コンクール優勝、日本ドイツリートコンクール優勝、文部科学大臣奨励賞、日本R.シュトラウス協会賞受賞、日本音楽コンクール(歌曲部門)入賞。大学在籍中にバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の声楽アンサンブルメンバーとして活動を開始、以来国内外の公演および録音に数多く参加している。松井亜希アフタヌーン・コンサート・シリーズ主宰。

プロフィール

長井進之介

国立音楽大学大学院修士課程器楽專攻(伴奏)修了、同大学院博士後期課程音楽学領域単位取得。 2007年度〈柴田南雄音楽評論賞﹀奨励賞受賞。著書に『OHHASHI いい音をいつまでも』(創英社/三省堂書店)など。群馬大学教育学部音楽教育講座非常勤講師、インターネットラジオ「OTTAVA」プレゼンターおよび国立音楽大学大学院伴奏助手。

関連公演情報
バッハ2025 綾なす調和 <特別企画>レクチャー&コンサート 「アンナとファニー その“声”を聴く」
2025年7/25(金) 19:00開演

【料金】
一般 ¥1,500 フレンズ、U-30 ¥500
※6公演セット券購入者は本公演にご招待いたします。

【出演者】
松井亜希(ソプラノ)、阪田知樹(ピアノ)、堀 朋平(お話)

【曲目】
J.S.バッハ: 《喜びをもってこの世を去りましょう》(追悼カンタータ《子らよ、嘆け》BWV244aより)
アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳より(抜粋)
《その心を贈ってくださるなら》 BWV518
《メヌエット》 BWV Anh.121
ファニー・メンデルスゾーン:《夜のさすらい人》op.7-1、《ゴンドラの歌》op.1-6 、《8月》12の性格的小品「一年」より H-U 385-8
フェーリクス・メンデルスゾーン :《厳格なる変奏曲》 op.54 他

公演詳細はこちら

バッハ2025綾なす調和 6公演セット券+レクチャー(限定数)
一般 ¥35,000  フレンズ ¥30,000
【発売中】

セット券情報

バッハ2025 綾なす調和 <特別企画>レクチャー&コンサート 「アンナとファニー その“声”を聴く」