シューベルトの宇宙【第4回】シューベルトが弾いたピアノとは?

シューベルトの宇宙【第4回】シューベルトが弾いたピアノとは?

2022.09.14 連載 シューベルト 筒井 はる香

シューベルトが弾いたピアノとは?  筒井はる香(音楽学)

二種類の膝レバー

かつてウィーン留学中にお世話になったインゴマー・ライナー教授の仕事部屋兼教室には、1800年代初頭にウィーンで作られたピアノがあった。その楽器には、鍵盤の下側に二種類の膝レバーがついていた。一方のレバーを膝で押し上げると、現在のダンパー・ペダルと同じ効果が得られ、響きが広がる。他方のレバーは「モデレイター」と呼ばれるもので、これを使うと、音が弱く、柔らかくなる。

印象に残っているのは、シューベルトの《楽興の時》D.780第4番を弾いた時のことである。ご存知の通り、この曲は調性のコントラストが魅力の小品だ。ピアニッシモで始まる変ニ長調の中間部分を、先に述べた二種類の膝レバーを同時に使用すると、およそピアノの音とは思えない幻想的な響きに一変した。それは、E.T.A.ホフマンの言葉を借りれば「不思議な予感のする魔法の国へ誘う」ようなロマン派的な響きであった。筆者は、この響きこそ、シューベルトが求めていたものだと体感した。

シューベルトの時代のピアノ

9世紀前半ヨーロッパではロンドンとウィーンがピアノ製作の中心地であった。この二都市を中心として「イギリス式ピアノ」と「ウィーン式ピアノ」というそれぞれ異なる特色をもつピアノが作られていた。音色や響きやタッチに違いがあるので、どちらの様式で作られたかということは、その楽器の特質を知る上で重要である。

ロンドンを代表するジョン・ブロードウッド&サンズ社においては、産業革命の恩恵を受けて早い段階からピアノの大量生産化が実現し、そのおかげでロンドン市民の家庭にピアノが普及した。市民の間で最もポピュラーだったのは、小型のスクエア・ピアノで、その愛らしい音色と調度品としての美しさが人気の秘訣であったようだ。

ウィーンのピアノ工房では、近代的な工場のシステムはまだ導入されていなかった。楽器の多くの部分は規格化されていなかったことから、鍵盤一つをとっても、製作家のセンスが光る。また1810年代~20年代にかけてウィーン市民の間で好まれたのは、オルガンのストップのように音色を変換させるためのレバーやペダル(ドイツ語圏ではそれらをツークZugと呼んだ)が数種類が備わったピアノであった。

どんなピアノで作曲したのか?

シューベルトは生涯、ピアノを所有する習慣がほとんどなく、多くの場合、友人や兄弟の家にある楽器を借りて演奏していたそうだが、彼にまつわる伝記や絵画などの歴史資料から伺えるのは、シューベルトの身の回りにあった楽器は、ウィーンまたはその周辺の町で作られたウィーン式ピアノであったことだ。一例を挙げると、シューベルトと親しかった画家ヴィルヘルム・アウクスト・リーダーによる「シューベルトの肖像画」(1875年)の背景にはスクエア・ピアノが描かれている。これは、かつてリーダーが所有していたピアノで、1820年頃にアントン・ヴァルターによって作られた&ゾーン製の作られた6オクターヴの音域をもつウィーン式ピアノである。またシューベルトの兄フェルディナントが所有したピアノは、ハインリヒ・エルヴェルケンバーによるグランドピアノで、製作年は不明だが1820年代ウィーンで主流であった6オクターヴ半の音域と4本のペダルを備えている。

ウィーン式ピアノに共通する点としてまず指摘したいのは、ハンマーヘッドに革が用いられていたことである。ハンマーヘッドは、弦に直接触れる部分であることから、それがどのような素材で出来ているかはピアノの響きの大部分を決めると言っても過言ではない。現代のピアノのハンマーヘッドには密度の高いフェルトが用いられているが、1820年代ウィーンのピアノのそれには鹿や羊などのなめし革が使用された。革を巻いたハンマーヘッドをもつピアノは、音が明瞭で、子音が際立つ発音を特徴とする。音色は、どちらかというとダルシマーのような民族楽器の音色に近い。ダルシマーはツィター属の擦弦楽器で、台形の箱に張られた弦を2本の撥で打って音を出す。撥の頭には色々な素材が用いられるが、革で覆われた撥もある。ピアノのハンマーとダルシマーの撥とが同じ素材をもっているのだから、音色が似ているのも偶然ではないだろう。

次にウィーン式ピアノの共通点として挙げられるのは、冒頭にも述べた「モデレイター」という装置が備わっていることである。これを使用すると、弦とハンマーの間に薄い布が挿入され、音が小さくなるので、ウィーンでは「ピアノ・ツーク Pianozug」とも呼ばれた(図2)。単に音が小さくなるだけでなく、モデレイターを使うことによって、革のハンマーヘッドによるダルシマーのような音色からハープのような柔らかい響きに変えることができるところが最大の魅力だと思う。

モデレイターの写真 囲みが挿入された薄い布の部分

【図2】モデレイターの写真 囲みが挿入された薄い布の部分(ホール所蔵 ナネッテ・シュトライヒャー)

ウィーン式ピアノがもたらした作風

シューベルトの作品には、民族音楽的な主題やモチーフを使ったものがある。たとえば《ハンガリーのメロディ》D817には、増2度や増4度を含んだ音階、長調と短調または強弱のすばやい交替、ツィンバロン(ハンガリーの民族楽器でダルシマーの一種)を想起させるような前打音を含む付点の音型や7連符のパッセージ(例えば第74小節や第78小節)などジプシー音楽の要素がちりばめられている(譜例)。この作品は1824年シューベルトがエステルハージ家の娘たちの家庭教師としてジェリス(現在のスロヴァキア、ジェリエゾフツェ)に滞在していた時に作曲されたものだから、シューベルトは実際に土着の音楽を耳にしたのかもしれない。

こうした民族音楽的な表現は、革のハンマーヘッドをもつピアノで演奏することによって本物さながらの風合いが出るだろう。さらに同作品の終結部分のロ長調に転調し、「dolce」と記された第88小節あたりからは、純粋にロマン派的な芸術の響きが聴こえてくる。ここではモデレイターとダンパー・ペダルを組み合わせた響きがとくに合っているだろう。一曲のなかに聖と俗、現世と天上といった対照的な世界を描き出す作風を、シューベルトは、以上に述べた特徴を備えたウィーン式ピアノから着想を得た部分もあったのではないだろうか。

譜例 シューベルト 《ハンガリーのメロディ》D817の73小節~76小節

【譜例】シューベルト 《ハンガリーのメロディ》D817の73小節~76小節

ジュピター196号掲載記事(2022年9月14日発行)

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プロフィール

音楽学

筒井 はる香

大阪大学大学院修了後、ウィーン国立音楽大学に留学。大阪大学大学院招へい研究員などを経て、2020年より同志社女子大学准教授。著書『フォルテピアノ―19世紀ウィーンの製作家と音楽家たち』(アルテスパブリッシング、2020年)。最近のテーマは「イギリス式ピアノの止音効果と演奏法の関係」

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