シューベルトの宇宙【第1回】宇宙のなかの作曲家たち
2022.03.10 シューベルトの宇宙 連載 シューベルト 堀 朋平
「宇宙のなかの作曲家たち」堀 朋平(住友生命いずみホール音楽アドバイザー)
此処ではない世界
いきなり映画の話で恐縮だが、『コングレス未来学会議』(アリ・フォルメン監督、2013年)をご覧になった方はいらっしゃるだろうか。科学の力で仮想空間に生きる女優の話である。しかし終盤では“仮想”と“現実”のどちらが倫理的なのかを鋭く問う展開になっていて、だからこそ中盤のユートピアがよけいに切ない。「科学の救いによって人々がエゴから解放され……色めく鮮やかさで人を魅惑する」空中庭園のシーンだ。
原作は、半世紀も前に活躍した(SFファンなら知らぬ者なき)スタニスワフ・レムの小説(1971年)。人の思いは世紀を超えても変わらないのだろう。夢と現実のどちらが本当なのかという問いは、おもえば荘子の「胡蝶の夢」(紀元前四世紀)からつづく永遠のテーマだった。
此処とはちがう世界を思うこと、それこそはロマン主義のエッセンスである。まだ拡張現実(AR)も映画もない世紀にあって、その思いは複数世界論(英語でpluralism)と呼ばれる思想に集約される。とりあえず「世界」を、「私たちが目にするあらゆる対象と、その延長としてすんなり受け入れられる総体」と理解しておこう。そんな世界がここ以外にあることを認めるのだから、複数世界論とは要するに「宇宙人がいる」「月に人が住んでいる」「恒星系がたくさんある」といった発想を広く容れるターム。
すでに古代ギリシアのプラトンは「無限個の宇宙」とか「魂は星と同じだけある」とか、途方もない仮説を流暢に語っていた(『ティマイオス』)。キリスト教世界では、こういう考えは異端的な緊張をはらむ。神がつくったこの世界は最善なのかという疑問が生じるからである。弁神論(=神義論)と呼ばれるこの問題をつきつめた17世紀のライプニッツは、まさに『弁神論』という書物で、「もろもろの太陽」とか「恒星のかなたにある天国」について語っていた。
宇宙を夢みる音楽たち
太陽がいっぱいあるという発想は、反キリスト教的な志向をもつフリーメイソンのためにモーツァルトが書いたカンタータ(K.619)を支えている――「月たちを、太陽たちをとおってラッパが鳴り響く」。このイメージはベートーヴェン《第九交響曲》の「歓喜に寄せて」で大活躍する——「たのしげに、太陽たち(Sonnen)が飛んでいくように」。シラーは宇宙的なスケールで天地のつながりを語る詩人であった。
《冬の旅》で三つの太陽を描いた私たちの作曲家も、この壮大な宇宙観に疎くはない。J・P・ウーツ(1720~96年)はシューベルトのお気に入り詩人のひとり。終末論的な迫力に富む重唱曲《嵐の中の神》(D985)は、こんな畏怖を歌う――「天に住まう御方が諸世界(Welten)を枯葉のように摘み取るとき/死すべき塵である私を誰が守ってくれようか」。複数形で「世界」が語られるのには理由がある。ライプニッツに強い関心を示したウーツは、まさに「弁神論」と題する詩でこう語っていた。「⻩昏と冷たき影が諸世界(Welten)を覆い、わたしを恍惚とさせた/〔しかし〕創造主はそれらの世界ではなく、われらの世界(Welt)を選ぶのだ」と。複数の世界を想定して初めて、「この世界」は愛おしく思えてくるのだろう。
宇宙を覗くツール=望遠鏡も忘れてはならない。ハイドンのオペラ《月の世界》(1777年)の第一幕で、それはとびきりユーモラスに用いられる。開始すぐ、えせ天文学者がにせの望遠鏡を富豪に覗かせて、月の世界の女性をみせる【下部 図1:ハイドン《月の世界》第1幕】。異世界の男女がくりひろげる愛撫に殴打に支配——ちょっぴり色っぽい三つのシーンを、コミカルな変奏曲がパントマイムふうに描きだす。「おぉ、なんと此処とはちがう世界なのか!」騙されて異世界を信じる富豪と、それを笑う醒めた聴き手。どちらが幸せなのだろう?
ナンセンスふたたび
さて本誌の読者なら、望遠鏡……ではなく万華鏡を覗く作曲家の絵をご記憶かもしれない(2016年、第162号)。この珍品を発明したD・ブルースター(1781~1868年)もまた「不死の人間は星を住処とする」という異教的な思想を抱く人だった。そんな万華鏡と、星団を思わせるその図柄は、シューベルトの音楽の不思議な変転を言いあらわす格好の比喩として好まれてきた。万華鏡の絵を描いた画家は「ナンセンス協会」というおかしな団体を主催していて、仲間たちとともにユーモラスな絵と文章をたくさん残している。宇宙も彼らの大好きなテーマであった。
天文学的観察 労苦なしに天を観察できるようになって久しい今、天体の配置やそれによって生じたあれこれの変化がまだ報告されていないのも当然のことだ。天文学者が[・・・]ぼうっとしたまま望遠鏡に向かったりすれば、もしかしたらこういう報告はずっと成されぬままかもしれない。(『人間的ナンセンスの論叢』1817年10月23日号)
彼らの「望遠鏡」で描き出された奇天烈な「天体の配置」の図は、こんな具合だ【図2:クーペルヴィーザー「平面天体図」(1817年9月25日号)】。黄道十二星座がところ狭しと描き込まれている。
中央にいる双子座の若者カストルとポルックスは、ギリシア神話では大の仲良しだったのに、はげしい口論をしていて、その隙を射手座が狙う。地上はずいぶん元気がない。左から、衰弱したヘラクレス、新旧論争にいそしむ 土星と天王星、病める木星=ジュピター(読者諸賢よ、憤慨されたい!)。天空は活力に満ちていて、戦車(ヘアヴァーゲン)を駆る大熊座(ヴァーゲン)に左前脚を轢かれた子熊座が、泣きべそをかいている(○印)。このクマさんは一か月たっても松葉づえで痛そうだ。【図3:同「天文学的観察」部分(1817年10月23日号)】。
このナンセンス絵の作者L.クーペルヴィーザーこそ、七年後にシューベルトから「大交響曲への道を拓く」決意の手紙をうけとることになる大親友である。
若者の脳内たるや、はちきれんばかりに豊かであった。まさにシンフォニーは一夜にしてならず。
1810~20年代のウィーンには「別世界」を見せてくれるアイテムが山のようにあった。パノラマ、覗きからくり、熱気球に万華鏡……それらに囲まれて、作曲家は頭脳をフルに活性化させていったのだ。シューベルトの音楽、音楽をとりまく社会、音楽を支える思想には、だから途方もない宇宙が詰まっている。そんな宇宙をめぐるリレー・エッセイを、次号からお楽しみいただこう!
ジュピター193号掲載記事(2022年3月10日発行)
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プロフィール
堀 朋平
住友生命いずみホール音楽アドバイザー。国立音楽大学ほか講師。東京大学大学院博 士後期課程修了。博士(文学)。近刊『わが友、シューベルト』(アルテスパブリッ シング、2023 年)。著書『〈フランツ・シューベルト〉の誕生――喪失と再生のオデ ュッセイ』(法政大学出版局、2016 年)、共著『バッハ キーワード事典』(春秋 社、2012 年)、訳書ヒンリヒセン『フランツ・シューベルト』(アルテスパブリッシ ング、2017 年)、共訳書バドゥーラ=スコダ『新版 モーツァルト――演奏法と解 釈』(音楽之友社、2016 年)、ボンズ『ベートーヴェン症候群』(春秋社、2022 年)など。
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