音楽と、風景と、身体と「無力の倫理 本棚を斜めから(1)」
2022.05.14 エッセイ 堀朋平エッセイ 堀 朋平
もう人間の力ではどうにもならない、と感じられることが多くないですか?
地球を覆うたくさんの痛ましい出来事にかぎらず、もう少し深いレベルでそんな気がします。ここ数年で印象に残っている本を、ちょっと斜めに振り返ってみました。
なんとなくアンニュイで何をしてよいか分からないという感情は、近代人に特有の悩みなどではなく、じつは人間が「定住」を始めた約 15000年前からの遺伝子に由来する(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』2011年)。同じように、他人に追い抜かれたりして「腹を立てる」のも、狩猟採集時代からの遺伝子のなせる業である(ハラリ『ホモ・デウス』2018年)。スマホから目を離せない理由だって、他人から「仲間」とみなされなければ迫害されるという本能にある(ハンセン『スマホ脳』2020年)。地球をゆっくり壊していく人間の所業は新たなフェイズに入り、もう止められないかもしれない(斉藤幸平『人新生の資本論』2020年)。他者を思いやる「正義」やその土台となる国民国家の理想はたかだか200年程度の夢だった。自由主義はもう耐用年数が過ぎている(宮台真司『正義から享楽へ』2016年)。などなど。
人間は、原初の欲望に操られる自動機械にすぎない――もしそうだとすれば、よりよい世界をめざす努力なんて泡沫の夢ということになります。ニヒリズムまであと一歩といったところですが、しかし何万年だの何十万人だのといった規模ばかり考えているのもよくありません。「人の無力」にはもっと繊細で肯定的な面もありそうです。たとえば感染すること。ウイルスではなく、目の前の人の立ち居振る舞いや考え方に共感して、思わず知らずそれを「感染模倣」するような事態のことです。古代ギリシアの昔から、芸術活動の根っこにある発想でした。鳥だってミラーニューロンなるものの働きで、人の歌を模倣することが分かっているそうです。
たまたま出会った音楽家たちに多方面から刺激されることで、細胞が入れ替わるような、そんな感覚を最近よく味わっています。彼(女)の存在を考えると、「私」はしだいに消えていく……。
ちょっと楽観的に響くかもしれませんが、からっぽになった自分の周りに広がる輪は、あんがいと強固でかけがえのない倫理を生んでくれるのではないでしょうか。
ジュピター194号掲載記事(2022年5月12日発行)
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プロフィール
住友生命いずみホール音楽アドバイザー
堀 朋平
住友生命いずみホール音楽アドバイザー。国立音楽大学ほか講師。東京大学大学院博 士後期課程修了。博士(文学)。近刊『わが友、シューベルト』(アルテスパブリッ シング、2023 年)。著書『〈フランツ・シューベルト〉の誕生――喪失と再生のオデ ュッセイ』(法政大学出版局、2016 年)、共著『バッハ キーワード事典』(春秋 社、2012 年)、訳書ヒンリヒセン『フランツ・シューベルト』(アルテスパブリッシ ング、2017 年)、共訳書バドゥーラ=スコダ『新版 モーツァルト――演奏法と解 釈』(音楽之友社、2016 年)、ボンズ『ベートーヴェン症候群』(春秋社、2022 年)など。
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