シューベルトの宇宙【第6回】ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団におけるシューベルトの交響曲《ザ・グレイト》

シューベルトの宇宙【第6回】ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団におけるシューベルトの交響曲《ザ・グレイト》

2023.02.14 シューベルトの宇宙 連載 シューベルト 小石かつら

《ザ・グレイト》の初演

シューベルトのハ長調交響曲《ザ・グレイト》は、彼の死後ずいぶん経ってからシューマンによって発見され、メンデルスゾーンがライプツィヒで初演した・・・。これは大変有名なエピソードである。では、そのライプツィヒでの演奏というのは、いったいぜんたい、どんなものだったのだろうか。

まずは初演当日のプログラムから見てみよう【表1】、【図1】。《グレイト》が初演されたのは、1839年3月21日(木)、シーズン最後の第20回予約演奏会で、当時の慣例に従って演奏会の冒頭に、開始の音楽として演奏された。

このときの演奏について、自筆譜を所有していたシューベルトの兄、フェルディナンド・ルーカス・シューベルトに宛てて、メンデルスゾーンが書いた手紙が残されている。手紙は、演奏会の様子を詳細に伝える長文であるが、かいつまむと、各楽章ごとに熱烈で長い拍手があったこと、楽団員が大満足だったこと、メンデルスゾーンが1835年にゲヴァントハウス管の音楽監督に着任して以来の4年間で一番良い演奏だったこと、早速来シーズンに再演が決まったこと等が書かれている。むろん、お礼と報告の手紙ゆえ社交辞令も含まれるだろうが、賛辞が淀みなく書き連ねられている。さらに2ヶ月後の5月には、ブライトコプフ&ヘルテル社から楽譜も発売された。初演は大成功だった。

シューベルト : 交響曲《ザ・グレイト》
メンデルスゾーン : 詩編 第42番「谷川の流れを鹿が慕うがごとく」
休憩
メンデルスゾーン : 序曲《ルイ・ブラス》
ハイドン : オラトリオ《四季》より〈春〉

表1 1839年3月21日(木) 第20回予約演奏会のプログラム

図1 当日のプログラム実物(ライプツィヒ市史料館蔵。筆者撮影)

図1 当日のプログラム実物(ライプツィヒ市史料館蔵。筆者撮影)

レパートリー化と特別扱い

ここで注目したいのは、メンデルスゾーンが手紙に記した通り、《グレイト》が翌シーズンに3回再演され、その後も毎シーズン欠かさず演奏されるようになったことである。これは、ゲヴァントハウス管弦楽団の予約演奏会が年間約20回だったことを考えると相当な頻度である【表2】[1]。しかも、2度目の上演である1839年12月12日以降、《グレイト》は演奏会の後半を独占する形で演奏されたのだ【表2】、【表3】。つまり、演奏会のメインの演目として位置づけられたのである。

表2 ゲヴァントハウス管弦楽団での《グレイト》 演奏一覧(メンデルスゾーン在任中)

表2 ゲヴァントハウス管弦楽団での《グレイト》 演奏一覧(メンデルスゾーン在任中)

ケルビーニ : 歌劇《アベンセラージュ族》より序曲
グルック : 歌劇《タウリスのイフィゲニア》よりシーンとアリア
ダヴィッド : トロンボーン協奏曲
シュポーア : 歌劇《イェソンダ》より二重唱
エルンスト : ロッシーニ 歌劇《オテロ》の
主題によるヴァイオリンのためのファンタジー
休憩
シューベルト : 交響曲《グレイト》

表3 《グレイト》が演奏会の後半を独占する形で
演奏された際のプログラム例:1847年10月28日

演奏会のメイン演目としての意味

《グレイト》が演奏会後半にメインとして演奏されることは、どの程度の「特別扱い」だったのだろうか。当楽団は1781年から予約演奏会を開催しているが、当初はオペラからの抜粋でプログラムを構成することが主流だった。交響曲は、当時は作品規模が小さかったこともあり、演奏会冒頭および最後に、いわば「開始と終了のベル代わり」に演奏されていた。この状態に変化が現れるのが、ベートーヴェンの交響曲《英雄》が、ライプツィヒで初めて演奏された時である。1807年1月29日の初演時には慣例通り演奏会冒頭で演奏されたが、翌週に再演される際には、演奏会後半を独占する形で演奏されたのだ。この取り扱いが契機となり、ゲヴァントハウスでは演奏会の後半を交響曲1曲だけにし、演奏会のメインにするというアイデアが出てくる。そしてこのスタイルは徐々に増加していくのだが、それと時期を同じくして、ベートーヴェンの交響曲の「チクルス演奏」が始まるのである。ライプツィヒではそれまで、作品(交響曲)を特定できる情報がプログラムに記載されていなかったので、これは画期的なことだった。

ベートーヴェンの交響曲に番号が記載され、チクルスで演奏され始めた1820年ごろ、予約演奏会の約半数が交響曲をメインとする演奏会になった。そして演奏会のメインとなった交響曲の約半数は、ベートーヴェンの交響曲だったのである。ベートーヴェン以外でメインとなった交響曲の例としては、モーツァルト(但し《ジュピター》のみ)、リース、ヴィンター、オンスロウ、カリヴォダの交響曲があげられる。これらを鑑みると、シューベルトの《グレイト》は、ベートーヴェンの交響曲と同等の価値付けがなされたのだと言えるだろう。

1月1日、新年の演奏会

もう一点、《グレイト》がベートーヴェン級の賛辞をもって受け入れられた根拠として、1月1日の演奏会で演奏された点をあげたい。1844年1月1日のことである【表2】。

ゲヴァントハウスの演奏会は、そもそも、ライプツィヒのメッセに合わせて開催された。つまり、9月末の聖ミカエルのメッセの日に演奏会シーズンが開幕し、以降毎木曜を基準として演奏会が開催され、1月1日の新年のメッセの演奏会を経て、4月から5月ごろの復活祭後のメッセでシーズンを終えるというスタイルである。その特別な日の演奏会のプログラムに、《グレイト》が選ばれたのだ。

新年の演奏会でメインの作品が交響曲になったのは、1822年にベートーヴェンの《英雄》が演奏されてからである。それ以降、1870年までのプログラムを調べた限り、ほぼ全例で交響曲がメインとして演奏されており、さらに、メンデルスゾーン在任中の1847年までについては、1838年にモーツァルトの《ジュピター》が演奏された以外は、全てベートーヴェンの交響曲だった。しかも1837年以降は《運命》に固定されていた。このような状況の中で、1844年に《グレイト》が取り上げられたのである[2]。

それまで22年間培われた「新年はベートーヴェン」、「新年は《運命》」という伝統の中に参入した《グレイト》。ライプツィヒにおける《グレイト》の価値が、ここからもわかるのである。

[1]但し、シューベルトの交響曲の中で演奏されたのは《グレイト》のみだった。シューベルトの他の作品としては、いくつかの歌曲が、1839年以前も含めて毎シーズン複数回演奏されている。

[2]《グレイト》以降は再び《運命》に戻り、1848年から1850年は、1847年に亡くなったメンデルスゾーンの作品が演奏された。その後、再びベートーヴェンの交響曲となり、シューマンが亡くなった後にシューマンの交響曲、という例外はあるが、1870年までのほぼ全ての新年の曲目は、ベートーヴェンの交響曲(ほぼ《運命》)であった。なお、1864年1月1日にも《グレイト》は演奏されている。また、1836年1月1日は資料がなく未確認。

ジュピター198号掲載記事(2023年1月12日発行)

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プロフィール

音楽学

小石かつら

京都市立芸術大学大学院でピアノ、ライプツィヒ大学、ベルリン工科大学、大阪大学大学院で音楽学を学ぶ。博士(文学)。共訳書に『ギャンブラー・モーツァルト』(春秋社)など。現在、関西学院大学文学部教授。