バッハ2025 綾なす調和 Vol.3 「深き淵より」<br>悩みから希望へ──ホールとアーティストが創り上げた、特別プログラム<br>鈴木優人×堀 朋平

バッハ2025 綾なす調和 Vol.3 「深き淵より」
悩みから希望へ──ホールとアーティストが創り上げた、特別プログラム
鈴木優人×堀 朋平

2025.09.29 インタビュー

最先端の解釈と演奏を追求する「バッハ2025 綾なす調和」。12月に開催する「深き淵より」ではホールゆかりの団体、バッハ・コレギウム・ジャパンと鈴木優人が出演。「バッハと祈り」をテーマにお送りします。本演奏会は鈴木優人と、堀 朋平がアイディアを出し合って創り上げました。プログラムに込められたストーリーを解き明かします。

自在でオリジナルな一夜

 今回、私から優人さんに3つのリクエストをしました。当ホールにふさわしい〝祈り〟の時間にしたいということ。2024度のメイン企画とつなげてメンデルスゾーンの作品を織り込んでいただきたいということ。そして優人さんの作品《深き淵より》をぜひ取り上げてほしいということでした。難問だったと思いますけど(笑)

鈴木 まず《深き淵より》は、詩編130編に基づくアカペラの作品で、「主よ、あなた様がすべての咎に目を止められるなら、我々はいかにして御前に立ちえましょう」という嘆きの歌です。基になった詩編の旋律は、下って上にまた戻ってくる「淵」を図形的に描いています。(譜例)

(譜例) マルティン・ルターによるコラール「深き淵より」。冒頭の大きな下行と上行が「淵」を表している。From Wikimedia Commons

 アカペラ、これこそ今回のプログラムの大きな魅力です。後半にもアカペラ作品を持ってきてくださいました。ブラームス《2つのモテット》。この作曲家らしい、複雑で深い内面に入っていく難曲ですね。

鈴木 バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)ではこれまでブラームスを取り上げる機会が少なかったのですが、最近《ドイツ・レクイエム》を演奏した経緯もあり、ぜひにと。《2つのモテット》は、合唱としてのまとまりやハーモニーへの理解が求められます。今回のように時代の幅を横断するプログラムだからこそ、この作品も活きてくるでしょう。ソリストも、コンセプトと様式を肌と経験値で理解していただける4人を選びました。固定したメンバーというより、外からの刺激をうけて自在な生命体をなす──BCJは言うなればアメーバのような存在なのです。

 ぜひ当ホールを培地として、新たな命を広げていってください(笑)ところで、顔つきあわせてお話した際、まっさきにご提案くださったのがメンデルスゾーンのオルガン・ソナタでした。

鈴木 そうでしたね。バッハのシリーズでメンデルスゾーンを取り上げることは、繋がりとして自然ですし、時代を横断する魅力もあります。さらに、住友生命いずみホールのオルガンは、私の父(鈴木雅明)が開館当初から弾いてきた楽器です。その楽器を私が弾かせていただくことに大きな意義を感じ、ご提案させていただきました。

 《オルガン・ソナタ 第3番》は、お姉さんであるファニー・メンデルスゾーンの結婚式のためのファンファーレで始まります。7月25日のレクチャー&コンサート「アンナとファニー その〝声〟を聴く」で大活躍した人ですから、じつにピッタリの幕開けです。ところがこのソナタはそのあと、ふいに心の奥に沈んでいきますね。

鈴木 はい。コラールと呼ばれるプロテスタントの讃美歌「深き淵より」の旋律です。この同じ旋律が、前半のクライマックスであるバッハのカンタータ第38番《深き悩みの淵より、われ汝に呼ばわる》の骨格をなしているわけです。

明と暗、コラールの力

 ゾクゾクするような構成です。バッハの2作品はすごく対照的ですね。第38番は、4本のトロンボーンが重々しい。まさに深き淵から響いてくるみたいに。いっぽう後半のカンタータ第140番《目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声》ではヴィオリーノ・ピッコロ(=3度高く調弦された小型のヴァイオリン)の軽やかさが際立ちます。公演日(12月6日)はちょうど待降節が始まってまもなくというタイミングですね。

鈴木 はい。もうすぐ救い主がくるという期待感を、冒頭合唱がフランス風序曲のスタイルで高めてくれます。基になったのは『マタイによる福音書』(第25章1―13)。10人の乙女が花婿を迎えに出ていく。5人は賢い乙女でじゅうぶんな油を用意していたが、残り5人は愚かな乙女で、油が足りない。花婿が遅れて到着した時に、油のない乙女たちは、灯し火を灯せず、祝宴に入れてもらえない。だから「目を覚ましていなさい」と。この時代にあって私たちも目を閉じていてはいけないぞ、という警告を含んだカンタータです。

 イエスと魂の出会いを婚礼にたとえるのは、よくみられる比喩ですね。バッハの堅苦しいイメージとちがって、とくに二重唱がエロチックです。

鈴木 旧約聖書の雅歌のような色っぽい雰囲気をかき立てますよね。花婿と花嫁が、神とイスラエルを、あるいは神と教会の愛の繋がりを暗に示している。さらに牧人たちの愛も描かれていて、まるで狩のカンタータのような牧歌的な雰囲気も聴こえてきます。

 こうしてみると、カンタータ第140番は、まさにバッハが行くべきして行き着いたスタイルのようにも聴こえてきますが?

鈴木 バッハは「コラール・カンタータ」と呼ばれる特別なスタイルに、1724年から25年に取り組んでいて、140番はその総集編ですね。ライプツィヒで1731年に作曲されました。4曲目の有名なコラールは、自らオルガン曲にも編曲しています。それほど気に入った音楽だったのでしょう。

 コラールといえば、ブラームス作品の骨格でもありますね。《2つのモテット》の後半では、ルターの旋律があらわれて「平安と安らぎをもって私は逝きます」と天国に向かう明るい曲調になります。

鈴木 コラールの旋律は、いろいろな作曲家たちがレトリックとファンタジーを込めて練り上げてきました。いわば音楽の大いなる源泉です。第140番のコラールの上行音形には、神様への憧れや希望が込められています。いっぽうで第38番の「深き淵」を表現する折り返しの音形──大きく下行して、上がってゆく──には感情の深みを感じます。

 その点でも対照的な2作です。1724年にカンタータ第38番が最初に響きわたった日には、瀕死の子どもをイエスの言葉が癒すお話が朗読されたといいます(『ヨハネによる福音書』第4章47─54)。そのあとに、この「深き淵から私は呼ぶ」という音楽が演奏されたわけですから、まさに言葉と音楽がリアルに繋がっていたのを実感します。

いま、バッハとともに

 こうして改めて今回のプログラムを眺めてみると、幾重にも綾なす明暗のドラマを、バッハがしっかり包摂しているのがわかります。優人さんにとってバッハは、結局のところどんな作曲家ですか?

鈴木 バッハは生涯を通じて、実利的にキャリアを築きました。ロマン派の時代とちがって、職人として作品に息吹を込めることに意味がありました。晩年に近づくほど、例えば《ロ短調ミサ曲》や《フーガの技法》、《音楽の捧げ物》といった作品で、音楽の根源に迫っていきます。時代の変化に直面しながらも、流行を追うことがありません。ブラームスもメンデルスゾーンも、バッハの音楽を礎に音楽を作った。「頼れるお父さん」のようですね。心が他のことに移ろわず、音楽の本質をひたすら追求する──そういうところが今日の私たちの心にも響くのではないでしょうか。

 最後に改めて、いずみホールのお客様にメッセージをお願いします。

鈴木 いずみホールのお客様は、音楽への興味と傾聴の力を持っていらっしゃる。私はほとんど生まれながらにお世話になっているようなホールで、今回こうやってご一緒できるのはとても嬉しいですし、堀さんとプログラムを作る過程もとても楽しかった。

 その場で次から次へとアイディアが出てくるのが魔法のようでした。

鈴木 とくに古い作品は、意味を込めて配置することで再創造され、より生き生きと作り変えられていきます。今回のプログラムは少し実験的ではありますが、「悩みから希望へ」というテーマですから、聴き終わった後に、きっと明るい気持ちになっていただけるのではないでしょうか。

ジュピター214号掲載記事(2025年9月10日発行)

プロフィール

Masato Suzuki

鈴木優人

バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)首席指揮者、読売日本交響楽団指揮者/クリエイティヴ・パートナー、アンサンブル・ジェネシス音楽監督、関西フィルハーモニー管弦楽団首席客演指揮者。指揮者としてNHK交響楽団、読売日本交響楽団等と共演するほか、ドイツ・ハンブルク交響楽団、オランダ・バッハ協会等に客演。東京藝術大学卒業及び同大学院修了。オランダ・ハーグ王立音楽院修了。第71回芸術選奨文部科学大臣新人賞、第18回齋藤秀雄メモリアル基金賞、第18回ホテルオークラ音楽賞、第29回渡邉曉雄音楽基金音楽賞受賞。調布国際音楽祭エグゼクティブ・プロデューサー。九州大学客員教授。

プロフィール

Tomohei Hori

堀 朋平

住友生命いずみホール音楽アドバイザー。国立音楽大学・九州大学ほか非常勤講師。東京大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。『わが友、シューベルト』(アルテスパブリッシング、2023年)で令和5年度芸術選奨文部科学大臣新人賞(評論部門)受賞。 著書『〈フランツ・シューベルト〉の誕生――喪失と再生のオデュッセイ』(法政大学出版局、2016年)、共著『バッハ キーワード事典』(春秋社、2012年)、 訳書ヒンリヒセン『フランツ・シューベルト』(アルテスパブリッシング、2017年)、共訳書バドゥーラ=スコダ『新版 モーツァルト――演奏法と解釈』(音楽之友社、2016年)、 ボンズ『ベートーヴェン症候群』(春秋社、2022年)など。やわらかな音楽研究をこころざしている。

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関連公演情報
バッハ2025 綾なす調和
Vol.3 「深き淵より」
2025/12/6(土)16:00開演
(15:40~鈴木優人、堀 朋平によるプレ・トーク)

一般S ¥9,000 A ¥7,000
U-30 ¥3,000
フレンズS ¥8,100 A ¥6,300

【出演】
鈴木優人(指揮、パイプオルガン) 、バッハ・コレギウム・ジャパン、藤井玲南(ソプラノ)、布施奈緒子(アルト)、櫻田 亮(テノール)、加耒 徹(バス)


F.メンデルスゾーン:オルガン・ソナタ 第 3 番 イ長調 op.65-3, MWV W58
鈴木優人:詩編130 編による「深き淵より」
J.S.バッハ:カンタータ 第38番〈深き悩みの淵より、われ汝に呼ばわる〉BWV38,
F.メンデルスゾーン:オルガン・ソナタ 第6番 ニ短調 op.65-6,MWV W61
J.ブラームス:2つのモテット op.74
J.S.バッハ:カンタータ 第140番〈目覚めよ、とわれらに呼ばわる物見らの声〉 BWV140

公演情報はこちら
バッハ2025 綾なす調和<br>Vol.3 「深き淵より」