「走りだす、ベートーヴェン」特別対談 かげはら史帆×堀 朋平
2026.04.09 インタビュー
住友生命いずみホール年間企画「走りだす、ベートーヴェン」は、没後200周年を迎える2027年に先駆け、中期の作品を中心に、器楽、室内楽、宗教曲と多彩なラインナップでお贈りします。昨年公開された「ベートーヴェン捏造」は、史実をベースにベートーヴェンの秘書、シンドラーがいかにしてそのイメージを「捏造」していったかに迫った映画。原作者のかげはら史帆さんと堀 朋平が人物像に迫ります。

『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』 かげはら史帆(著) 河出文庫 990円(税込)
ベートーヴェンが周囲の人との意思疎通に使っていた「会話帳」に、改竄が行われた形跡が多数ある・・・!その犯人は、ベートーヴェンの秘書を務めたアントン・シンドラー。音楽史上のスキャンダルに発展した、この事件の全貌に迫る、歴史ノンフィクション。2025年に映画化。
堀(以下H):かげはらさんの多彩なご著書から、ひとつ挙げるとしたら『ベートーヴェンの愛弟子』が好きです。弟子であり、ヨーロッパ中を拠点に活動した風雲児フェルディナント・リースの目線で辿るからこそ、世界史や音楽史の流れがじつに鮮やかに見えてくる。書き方も、面白いのに体系的かつ禁欲的。その意味で音楽学の本流をいく名著であると同時に、ユニークな師弟への等身大の愛もあふれています。

『ベートーヴェンの愛弟子
フェルディナント・リースの数奇なる運命』
かげはら史帆(著)
春秋社 2,420円(税込)
かげはら(以下K):リースに関しては、ベートーヴェンの伝記的な覚書を書いた人、ということしか最初は知りませんでした。書簡集をきちんと読む機会があり、だんだんハマっていった結果、伝記を書くことになったんです。
H:世界初のリース伝ということですし。ほとんど弟子を取らなかったベートーヴェンにあって、リースとチェルニー(注1)は例外のようですね。リースはちょっと生意気な性格だったのでしょうか?
K:気が利いて、性格が明るく、時にベートーヴェンをいじったりもしました。一方でシンドラー(注2)のような生真面目なタイプは、得意ではなかったのかも。ベートーヴェンは総じて、自然体な人といるのが楽しかったような気がします。
H:ほかにカール・ホルツ(注3)というヴァイオリニストもいます。映画『ベートーヴェン捏造』ではセリフも少なめで、木で鼻をくくった優等生みたいでしたが、この人もお気に入りでしたね。
K:そうですね。ただ、実際はコミュニケーション能力が高く、部下にしたいタイプというか。ベートーヴェンと近づきになった当初の会話帳を見てみると、「こういう症状にはこれが効きますよ」という健康ネタでした。
H:ベートーヴェンには食事に関する逸話が多いですね。毎朝のコーヒー豆は60粒ちゃんと数えたとか。お腹のトラブルにいつも悩まされていたし、食には気を使っていたのでしょうか。
K:はい。新鮮な卵にもこだわって、とにかくヘルシー志向でした。当時からウィーンではご飯の量がとても多く、それが嫌だったようです。
H:現在も私にとっては食べきれない量がでます。性格はどうだったのでしょう。映画の中では、肉の脂身に怒って女中に料理を投げつけるシーンがありますが?
K:家政婦やウェイターに料理を投げつけたとか。しょっちゅう物を落としていたという話はリースが書き残しています。
激情家で、モテた男?
H:音楽そのものから見ると、たとえば《熱情ソナタ》には常人にない激情を感じます。こんな曲、今だってちょっと考えられない!
K:《熱情ソナタ》はチェルニーも自作のピアノ・ソナタで音型を借用していますから、身近な知人への影響も凄まじかったことがわかります。
H:ああいう音楽で、人生に行き詰まった人——特に貴族の女性——が救われたという記録が目を引きます。ベートーヴェンは「モテない」というイメージもありますが?
K:普通にモテたと思いますよ。リベラルな女性が好きだったように思います。枠に収まらないところが、音楽の革新性とも結びついたのでしょう。
H:《弦楽四重奏曲 第11番「セリオーソ」》では、最後のどんでん返しで聴衆を置き去りにしてしまった。それまで積み上げてきた音の流れを一気に壊すなんて、ふつう恐ろしくてできない気がしますけど……。
K:『第九』の4楽章の「こんな音じゃない!」もそうなのでしょうね。アイロニーの人と言えそうです。
H:アイロニーとかフモール(Humor)に関していうと、まさにベートーヴェンの出現によって、これらの概念が更新されたことが当時の美学論文から分かります。人を楽しませるハイドン流のジョークとは違い、不意に芸術家本人の素顔がのぞくようになる……そんな大変革。
ベートーヴェンを〝作る〟人たち
K:じつは当時の多くの人が「自分のベートーヴェン像を残したい」と強く思っていました。そのなかでもシンドラーがインパクトを持っているのは、『ベートーヴェン伝』という本をしっかり残せたからですね。他の人は結局書けませんでしたから。
H:しかも版を重ねるごとに細やかに書き換えていますしね。そんなシンドラーに鉄槌を下したのが、セイヤー(注4)という学者です。
K:はい、たしかに音楽学的な文脈で捉えるとシンドラーは「いけないことをした人」です。けれど、ベートーヴェンのプロデュースに携わったという見方をすると、ある種当然のことをやった、とも言えるのではないでしょうか。結局、どちらが正しいとか間違っているということはないのかもしれません。
H:とくに当時は、まだ近代的な学問としての音楽学が確立していませんでしたしね。近著『ピアニストは「ファンサ」の原点か』もそうですが、かげはらさんは受け手の熱意や視点をいつも大切にして、そこから「自由に聴いていいんだよ」というメッセージを発しているように思います。
K:そうですね。ベートーヴェンやリストなど、超偉大な人の一人称ではなく、いつも「その偉人を見てる誰か」の視点を大事にしています。
ポップカルチャーとの接点
H:いまの時代に、あえてベートーヴェンを聴く意味をどう思われますか?
K:ぜひ様々なカルチャーの中の「一部」として、それぞれに聴いてほしいです。たとえばBL的な関係を読み込む、といった欲望にも、ベートーヴェン周辺の人間関係はうまくハマると思うのです。もちろん彼が偉大だったのは否定しようがありません。でも一方で、周辺の人物に肉薄しないと、ベートーヴェンがどれだけ凄かったのかもわからないですよね。その意味で、自分の日常の人間関係とリンクさせると、新しいものがたくさん見えてくるのではないでしょうか?
H:なるほど。そんなかげはらさんが、とりわけ強烈な影響を受けた曲ってありますか?
K:ひとつ挙げるなら《大フーガ》ですね。初めて聴いたときに「何だこれは?」とのけぞりました。当時の人も同じ感想だったのではないでしょうか。でも出版社から説得されて、最終的に小ぶりな曲に差し替えるんですよね。あ、ちゃんと正気に戻って考え直せるんじゃんと思いましたね(笑)。映画での描かれ方を追うのも勉強になりますよ。『敬愛なるベートーヴェン』(2006年、イギリス・ハンガリー合作映画)では、前半で《第九》、後半で《大フーガ》の話を主軸に、女性の写譜師とベートーヴェンの関係が描かれます。最初のうち二人は打ち解けられないのですが、《第九》の初演を共に実現することで魂の交流が生じる。「この人が分かったわ」となるのだけど、《大フーガ》を書いたあと、また分からなくなる。
H:まさにベートーヴェンの底知れぬ人柄を象徴する曲ですね。
いま、ベートーヴェンを聴く意味を問う
H:ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』(片山敏彦訳、岩波文庫)を読み返していると、第一次世界大戦で生き残った人びとにまっすぐ届く革命児の凄さがビリビリ伝わってきます。100年後の今も世界は明るくありません。そんな世相にあってこそ、心が疲れている人に寄り添う力を、改めて皆さまと分け合いたいなと望んでいます。
K:『走りだす、ベートーヴェン』というタイトルと重なりますが、生涯を通じて「あり方」が変わっていくのが面白いです。必ずしも自身で切り開いたわけではなく、音楽全体の潮流とか社会の変化も受けてのことですが、どんどんカラーが変わっていくところは、やっぱり面白いですね。いつも新しいことを試そうとしている。
H:かげはらさんには小説家の顔もあって、まさにいろんなカラーを展開中ですね。これからも、広い意味での「ファン」の視点からたくさん音楽について語ってください。研究にも、きっと小説と交わる部分が多いと信じています。
(注1)カール・チェルニー:作曲家、ピアニスト。9歳の頃にベートーヴェンに弟子入りし、ピアノ演奏を直接学んだ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲「第5番」のウィーン初演を行った。
(注2)アントン・シンドラー:ベートーヴェンの秘書を務め、『ベートーヴェン伝』を著す。耳の不自由なベートーヴェンが使っていた「会話帳」に多数の改ざんを行ったことが1970年代に明らかになった。
(注3)カール・ホルツ:ヴァイオリニスト。シンドラーの後のベートーヴェンの秘書を務めた。
(注4)アレグザンダー・ウィーロック・セイヤー:アメリカの音楽学者。シンドラーのベートーヴェン伝の矛盾点を指摘。堅実な資料研究に基づく著述を行った。
ジュピター217号掲載記事(2026年3月12日発行)
プロフィール
Tomohei Hori
堀 朋平
住友生命いずみホール音楽アドバイザー。国立音楽大学・九州大学ほか非常勤講師。東京大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。『わが友、シューベルト』(アルテスパブリッシング、2023年)で令和5年度芸術選奨文部科学大臣新人賞(評論部門)受賞。著書『〈フランツ・シューベルト〉の誕生――喪失と再生のオデュッセイ』(法政大学出版局、2016年)、共著『バッハ キーワード事典』(春秋社、2012年)、訳書ヒンリヒセン『フランツ・シューベルト』(アルテスパブリッシング、2017年)、共訳書バドゥーラ=スコダ『新版 モーツァルト――演奏法と解釈』(音楽之友社、2016年)、ボンズ『ベートーヴェン症候群』(春秋社、2022年)など。やわらかな音楽研究をこころざしている。
公式Xプロフィール
Shiho Kagehara
かげはら 史帆
文筆家。著書『ピアニストは「ファンサ」の原点か』(河出新書)、『ニジンスキーは銀橋で踊らない』(河出書房新社)、『ベートーヴェンの愛弟子』(春秋社)、『ベートーヴェン捏造』(柏書房/河出文庫)。ほか各種メディアに小説、エッセイ、書評などを寄稿。
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