音楽と、風景と、身体と「<ruby>傷<rt>トラウマ</rt></ruby>と音楽」

音楽と、風景と、身体と「トラウマと音楽」

2021.05.21 エッセイ 堀朋平エッセイ 堀 朋平

トラウマという言葉を、テレビなどで最近よく目にします。ちょうど震災から 10 年が過ぎ、疫病が流行しだしてから1年が経ちました。心に深い傷を負って生き残った人が、 うしなった対象を正しく想起すること、そのための環境を社会的に整えることの大切さが説かれているようです。だいぶ前に宮地尚子さんという精神科医が、まさに『トラウマ』(岩波新書、2013 年)という本で、すでにそういうことを論じていました。先駆的で、とても分かりやすい一冊です。

重い現実に苦しむ方々からすれば少し次元は違いますが、これは芸術とも無縁ではありません。なぜでしょう? トラウマが「いまの自分をつよく動かす、もう決して触れられぬ一点」だとすれば、それはまさに芸術という営みの核でもあるからです。

そんなぎりぎりの一点を変奏する画家は、たくさんいます。たとえば草間彌生(1929 年~)は、「魂の背後に見え隠れする不気味なもの」から何とか逃れるために、水玉模様をモチーフにした作品を執拗に描きます。あるいは横尾忠則(1936 年~)は、現実の路地を合成した三叉路のシリーズを続けていて、その路地の中央にしばしば「闇の奥」がふっと姿を見せます。「トボトボ心もとなく/闇の奥へ這入っていくぼく。/そのぼくは子供の頃の闇の記憶に/戻っていくようだ」(『Y路地』東方出版、2006年)。

ここまではっきりアーティスト自身が語っていなくても、芸術作品そのものから「心のくせ」を読み取ることもできるはず。きれいなメロディに嵐のような厳しい不協和音をぶつけること(緩徐楽章)。ひとつのメロディをずっと慈しむこと(変奏曲)。しかもそれを生涯にわたってくり返していくこと(個人様式)……。たんに「古典派時代のルーティン」というだけではなく、こういう営みから、作曲家自身の――あるいは人間なら誰しも抱えざるをえない――トラウマ的な内面を探ることができるかもしれません。そういう探求は、「過去」の音楽と「今」の私たちをつなぐ、とても強力なツールとなるでしょう。

ジュピター188号掲載記事(2021年5月14日発行)

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プロフィール

堀 朋平

住友生命いずみホール音楽アドバイザー。国立音楽大学ほか講師。東京大学大学院博 士後期課程修了。博士(文学)。近刊『わが友、シューベルト』(アルテスパブリッ シング、2023 年)。著書『〈フランツ・シューベルト〉の誕生――喪失と再生のオデ ュッセイ』(法政大学出版局、2016 年)、共著『バッハ キーワード事典』(春秋 社、2012 年)、訳書ヒンリヒセン『フランツ・シューベルト』(アルテスパブリッシ ング、2017 年)、共訳書バドゥーラ=スコダ『新版 モーツァルト――演奏法と解 釈』(音楽之友社、2016 年)、ボンズ『ベートーヴェン症候群』(春秋社、2022 年)など。

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