素顔のメンデルスゾーン【第二回】英才教育と日曜音楽会

素顔のメンデルスゾーン【第二回】英才教育と日曜音楽会

2024.05.23 素顔のメンデルスゾーン 連載

教育への熱意と環境

メンデルスゾーンの祖父モーゼスは、有名なユダヤ人哲学者。自らの思想をドイツ語で著した最初のユダヤ人哲学者として知られる。注目すべきは、彼が、ユダヤ教の思想を背負いつつも、キリスト教の思想家と同じ問題に取り組み、ドイツ語でドイツの人々に語りかけたことだろう。このことは、キリスト教とユダヤ教の対話を開くこととなった。今から振り返れば、彼の存在が、その後アカデミックな領域や芸術分野において、ユダヤ人が大活躍する礎を築いたともいえるだろう。

モーゼスの長男ヨーゼフは、1795年にメンデルスゾーン銀行を創業する。ここに1804年から次男のアブラハムも参画、巨大な銀行へと成長した。このアブラハムが、メンデルスゾーンの父だ。銀行はベルリンの中心、ジャンダルメン広場からのびるイェーガー通りに店を構えた。オペラハウス、フンボルト大学、コンツェルトハウス等といった場所は全て徒歩5分以内という立地である。ちなみに銀行はメンデルスゾーンの弟パウルが引き継ぎ、パウルはプロイセン政府の財政顧問を担当、1870年代にはロシア国債等のヨーロッパ市場を独占したが、1938年からのアーリア化(ユダヤ人の経営する企業をドイツの企業に強制的に売却させる)政策によって、解体させられた。これについては2000年代に入ってからも裁判をしていたが、書類が不十分であるとして、核心には触れずに棄却されたそうである。

父アブラハムは、このような銀行の経営だけでなく、文化人としても、当時各地で流行っていた社交の場を設立・主宰したり、1793年にベルリンに設立されたベルリン・ジングアカデミーのメンバーでもあったりした。ここに生まれたメンデルスゾーンは、莫大な経済力を基盤にした教育を受けて育った。それは、現実には存在しないレヴェルの「理想的なドイツ的な」教育だった。ドイツ的ということに関連するかどうかは確定できないが、不思議なことに、メンデルスゾーンが生まれたハンブルクのユダヤ人コミュニティの出生登録簿には、彼の名前の記載が無い。また、師であるツェルターがゲーテにメンデルスゾーンのことを、次のように紹介したとの記録もある。「(メンデルスゾーンが)ユダヤ人の息子であることは確かだが、ユダヤ人ではない。彼の父は(中略)しかるべき育て方をしてきた」。

ともあれ、その教育内容は、具体的には、ピアノ、ヴァイオリン、作曲、英語、仏語、伊語、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、文学、数学、物理、化学、地理、歴史、哲学、美術史、デッサン、水泳、フェンシング等を、それぞれ当時の第一人者に学ぶというものだった。おもしろい手紙が残されているので紹介しよう。メンデルスゾーンが弟のパウルになりきって書いたものだ。

毎日僕がすることをお話しましょう。朝5時に起きます。(中略)でもハイゼ先生(古典文献学者)に起こされるまで布団の中にいます。起床後はラテン語、8時からは古代の偉人たちについて学びます。9時に朝食、それからラテン語とギリシャ神話。10時のおやつの後はお父さんと計算。11時には、僕(パウル)はチェロ、ファニーはピアノ、フェリックス(本人)はヴァイオリンを練習します。(中略)13時には歴史と地理、ドイツ語で政治を学び、ギリシャ神話を勉強し、14時にはフランス語。それからやっと昼食。(中略)16時にシュトルツさんのところに行ってデッサンをして、17時にはお父さんとフランス語。(抄訳、Hans-Günter Klein, 1997)

まともに読めば、歴史や地理は15分もやっていない(笑)。しかし過密スケジュールで大変だったことは確かだろう。楽しくやっているようだが、実際、譜面を落書きだらけにしている様子も残されていて微笑ましい(図1)。母親は編み物などをしながら「見張っていた」という記録もある(真相不明)。

【図1】 1824年ごろに書かれたピアノ四重奏曲第3番の自筆譜。オックスフォード、ボドリー図書館所蔵。とくに右上あたりに20コくらい描かれた顔は、それぞれ個性があって面白い。

自宅での日曜音楽会と知識人や芸術家たちとの出会い

メンデルスゾーンが12歳の頃、自宅での日曜音楽会が始められた。これは隔週日曜日に開催され、音楽の勉強をする子どもたちの発表の場だった。始めは姉のファニー(1805-47)とのピアノ演奏が中心だったが、時には規模が大きくなることもあった。たとえばメンデルスゾーンの12歳の誕生日には、宮廷楽団(!)が雇われて、ジングシュピール《兵士の恋》が初演されている。現代日本なら小学校6年生の子どもが、自分が作った作品を歌手とオーケストラの指揮をして披露する場を与えられていたのだ。しかも招待されていたのは、フンボルトやハイネ、ヘーゲルといった錚々たる知識人たち80人ほど・・・。驚愕の英才教育である。

さて、日曜音楽会が始められたのと同じ頃の1821年、自宅から徒歩5分ほどのジャンダルメン広場に劇場(現コンツェルトハウス)が建てられた。そこで6月18日、ウェーバーの《魔弾の射手》が初演されるのだが、この準備の間、ウェーバーはメンデルスゾーン家に頻繁に訪れていたらしい。また10月末から11月中旬には、メンデルスゾーンはヴァイマールのゲーテを初めて訪問している。1825年の3月から5月には父とパリに旅行をし、ロッシーニやリストらと知り合い、ケルビーニから才能を認められた。この年、一家は徒歩20分程の場所であるライプツィヒ通り3番地に引っ越す。ここは、当時の単位で7モルゲン(単位は時代と地域によって大きく異なるので正確にはわからないが、おそらく1.8ヘクタール程)の大邸宅で、その庭には100人以上が入れるサマーハウスが建てられ、日曜音楽会は引き続きここで開催された(図2)。

【図2】 ライプツィヒ通り3番地の庭のサマーハウスの入り口。セバスティアン・ヘンゼル(姉ファニーの息子)による水彩画(1851年) ベルリン国立図書館所蔵。

1827年からはベルリン大学に在籍し、ヘーゲルの美学講義などを聴講している。メンデルスゾーンだけでなく、たとえばメンデルスゾーンの妹のレベッカが、フンボルトの紹介で数学者ディリクレと結婚するなど、一家はベルリンの文化的な中心にいたのである。

ジュピター206号掲載記事(2024年5月16日発行)

プロフィール

音楽学

小石かつら

京都市立芸術大学大学院でピアノ、ライプツィヒ大学、ベルリン工科大学、大阪大学大学院で音楽学を学ぶ。博士(文学)。共訳書に『ギャンブラー・モーツァルト』(春秋社)など。現在、関西学院大学文学部教授。