素顔のメンデルスゾーン【第一回】鉄道網の発達がもたらした新しい働き方!?

素顔のメンデルスゾーン【第一回】鉄道網の発達がもたらした新しい働き方!?

2024.03.22 素顔のメンデルスゾーン 連載

産業革命を経て1825年、世界初の鉄道がイギリスのストックトンとダーリントン間で開業。定期運行の鉄道も、1830年にマンチェスターとリヴァプール間の約50キロが開通した。時刻表に基づく天候に左右されない鉄道のおかげで、計画的な旅行が可能になった。メンデルスゾーンの初めてのロンドン演奏旅行は、まさにこの時期の1829年。出発する前に演奏会の予定を組めたことは、モーツァルトやハイドンの演奏旅行との決定的な違いである。これが可能となるにあたって、忘れてはならないのは郵便事情。事前に予定を組むための遠距離通信は、道路網の整備と郵便馬車の恩恵だった。

元祖「世界中を飛びまわる指揮者」

メンデルスゾーンは鉄道開通と同時発生の鉄道オタクだと思う。彼は生涯に10回イギリス演奏旅行をし、英国内で鉄道が開通するやいなや、時刻表とにらめっこしていた。そんな彼がロンドンからバーミンガム音楽祭に移動する、1840年の第6回イギリス演奏旅行の様子を再現しよう。

9月7日、ライプツィヒからロンドンの友人クリンゲマンに手紙を書く。
「水曜日(9月16日)にはロンドンに到着する予定です。ドーバー定期便、あるいはその日にちょうどオステンドの蒸気船が到着すれば、その便で」。ところが途中で体調を崩し、到着予定だった16日、オステンドから再度手紙を書く。
「いくら努力しても、今日ロンドンに到着することはできませんでした。というのも夜間に移動する体力がなく、今日の船に数時間も遅れたからです。天気が猛烈に荒れて風もひどかったので、明日カレーに行き、そこから船に乗るつもりです。神のご加護があれば、明後日の夕方にはロンドンに着くと思います」。
神のご加護があり、予定通り18日にロンドンに到着した。到着直後に母親に手紙を書いている。
「一度も船酔いもしなかったし、ベルギー鉄道の旅は私に負担をかけるどころか、大いに楽しませてくれたので、疲れることなく到着することができました」。
友人宛とニュアンスが違うのはご愛嬌。そして翌々日にはバーミンガムに移動し、交響曲第2番《賛歌》とピアノ協奏曲第1番を演奏。24日(木)、クリンゲマンに手紙を書く。
「(25日の夕方4時に出発する予定でしたが)土曜日(26日)の朝8時の便で帰ることにしました。このことで私を怒らないでください。モシェレスにも私の不在を謝ってください。土曜日の朝汽車で出発し、1時ごろにロンドンに着きたいです」。

図1 ロンドン=バーミンガム鉄道時刻表1840年9月1日 The Midland Counties’ Railway Companion. 1840

当時の時刻表(図1)には4時の汽車も8時半の汽車もあり、後者は1時半にロンドンに到着する。メンデルスゾーンはこの3年前の1837年にもバーミンガムで演奏をしていたが、バーミンガムとロンドン間の鉄道が開通したのは1838年9月のこと。開通して2年の汽車、大変革する街の様子に、メンデルスゾーンはスケッチも残している(図2)。

図2 本人によるバーミンガムのスケッチ 1840年 ベルリン国立図書館所蔵

26日、予定通りロンドンに到着。10月2日までロンドンで過ごし、郵便馬車でドーバーに移動。10月3日にドーバー海峡を船で渡り、オステンドで一泊。海は大荒れでスケッチを残している(図3)。翌10月4日早朝6時半の汽車に乗ってライプツィヒに向かい、その後の旅程は不明だが、10月9日夕方、ライプツィヒに到着したようである。

図3 ドーバー海峡の船のスケッチ 1840年10月3日の手紙

元祖「単身赴任ビジネスマン」?!

さて、ドイツでは1835年に最初の鉄道が開通。ドイツ初の長距離鉄道は1839年4月に開通したライプツィヒとドレスデン間だった(図4)。

図4 ライプツィヒからドレスデン間に先駆け、1837年にアルテンまで開通した。
背景にライプツィヒの街並みが描かれている。
Die Eröffnung der Leipzig-Dresdner Eisenbahn, Leipzig 1837

メンデルスゾーンはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者でありながら、ドレスデン(約120km)やベルリン(約160km)に行ったり来たりの単身赴任生活を送っていた。今回はベルリンとの兼務の実態を紹介しよう。

1840年6月、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(1795-1861)がプロイセン王に即位する。彼は、1829年のメンデルスゾーンによるバッハ《マタイ受難曲》蘇演にも臨席していた人物だが、その王からの強い要請で、1841年からベルリンとライプツィヒの職務を兼務するようになった。両都市を往き来する生活が始まったのである。

この件は、1840年11月に話が始まり、1841年5月10日ごろから24日にかけて、家族でベルリンに滞在、その間の5月19日には「次のシーズンはベルリンで過ごしたいのでゲヴァントハウス管弦楽団の指揮を外してほしい、2〜3回であれば喜んで指揮をする」と手紙を書いている。そして7月29日、家族と共にベルリンへ引っ越す。ライプツィヒの家は残したままで、1年の期限付きだった。この時点では鉄道は開通しておらず、開通を見越しての決断だった。

ベルリン、ライプツィヒ間の鉄道開通は直後の9月。ゲヴァントハウス管弦楽団のシーズンは9月末から4月ごろで、シーズン中に2回、ライプツィヒに戻っている。
その1回目を例にみると、開通からたった2ヶ月後の11月12日、ベルリンからライプツィヒに到着。翌日の13日、ゲヴァントハウスの第6回予約演奏会でウェーバー《オベロン》序曲やベートーヴェンの交響曲第7番を指揮。22日、オーケストラ年金基金のための慈善演奏会でダーフィトの交響曲第1番やベートーヴェンのレオノーレ序曲、自身の詩編第95番を指揮した他、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタや自身の無言歌なども演奏。3日後の25日、第7回予約演奏会でベートーヴェンのピアノ協奏曲ト長調のソロを担当、自身の詩編第114番やオラトリオ《パウルス》から序曲、合唱等を指揮。この時点で予約演奏会2回を指揮しているので、5月の手紙の内容は達成。さらに2日後の27日、ダーフィトによる特別演奏会で自身のピアノ・トリオ第1番や「厳格なる変奏曲」を演奏。そして翌々日の29日にはベルリンに戻っている。驚異的というか、まったく時代を感じさせないというか、現代の超売れっ子指揮者と同様の状況である。

図5 ベルリン=ライプツィヒ時刻表 1842年 プロイセン総合新聞1842年3月12日

1841年開通当時の時刻表は見つけられなかったが、開通半年後の1842年3月13日に改訂された時刻表が、プロイセン総合新聞に掲載されている(図5)。これによると、例えばベルリンを朝7時に発つと、ケーテンに11時45分着、12時半発の汽車に乗り換えてライプツィヒには14時半に着となる。乗り換え込み7時間半で、毎日2往復運行されていたようである。元祖鉄ちゃんとしか言いようがない、メンデルスゾーンの素顔である。

ジュピター205号掲載記事(2024年3月13日発行)

プロフィール

音楽学

小石かつら

京都市立芸術大学大学院でピアノ、ライプツィヒ大学、ベルリン工科大学、大阪大学大学院で音楽学を学ぶ。博士(文学)。共訳書に『ギャンブラー・モーツァルト』(春秋社)など。現在、関西学院大学文学部教授。