素顔のメンデルスゾーン【最終回】メンデルスゾーンとイギリス

素顔のメンデルスゾーン【最終回】メンデルスゾーンとイギリス

2025.01.29 素顔のメンデルスゾーン 連載 小石かつら

メンデルスゾーンは、1829年20歳の時から、亡くなる年の1847年まで、トータルで10回イギリスを訪問している。この全10回の訪問は、定職を得るまでと得た後とで、内容が大きく異なる。つまり、紆余曲折を経てようやくデュッセルドルフ市音楽監督になるまでの訪問と、1835年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者になってからの訪問とで、変わるのだ。一方、全10回で共通しているのは、当地での公演が、自主公演ではなく既存の組織に招聘されての公演(または友人主催の慈善演奏会等)だったことだ。例えばロンドン・フィルハーモニー協会(全7回)、バーミンガム音楽祭(全3回)等である。

イギリス風の服装をするメンデルスゾーン。 1830年 James Warren Chilcle

自作の新作初演をする指揮者として

早速種明かしすると、定職を得るまでの4回の訪問では、自分の作品を演奏する指揮者(ピアニスト)だった。初めてのロンドン訪問は、ベルリンでバッハの《マタイ受難曲》を蘇演した直後の1829年。その時までに、ロンドンでメンデルスゾーンの作品が演奏されたことは一度もなかった。そう、ロンドンの人たちはメンデルスゾーンの作品を聴いたことがなかったのだ。メンデルスゾーンに関する情報は、ロンドンで発行されていた雑誌『ハルモニコン』の「外国音楽報告」という欄で、5回、簡単に報告されていただけだったのである。そんなロンドンの聴衆は、初めてのメンデルスゾーンの登場に、どんな反応をしたのだろうか。『ハルモニコン』は次のように伝える。「彼の最初の交響曲は労作である。この交響曲はこの作曲者の天才ぶりを示しており、それは3人の偉大な作曲家によってのみ凌駕される。ヨーロッパで最初の音楽家はハイドン。2番目はモーツァルト。3番目はベートーヴェン。そして4番目はメンデルスゾーンである」。弱冠20才の若者に対して大絶賛である。そして、この時以降、彼の作品はフィルハーモニー協会で少なくともシーズンに一度は演奏されることとなった。メンデルスゾーンの登場は、イギリスの音楽演奏史を塗り替える出来事だったのである。

筆者が数えた限りでは、メンデルスゾーンはイギリスで80作品を指揮またはピアノ演奏した。この中には、彼の作品を43曲含んでいる。彼は最後の10回目を除いて毎回、新作を携えるか、少なくとも旧作を手直しして訪問していた。しかもその新曲は、直近の渡英以降に新たに作曲された、実に新しい作品だった(第8回訪問でのピアノ・トリオ第1番のみ例外)。有名な例を挙げるなら、2回目のロンドン訪問が終わった1832年11月5日、フィルハーモニー協会はメンデルスゾーンに100ギニーで序曲、交響曲、歌曲の作曲を依頼した。これに応えて彼は交響曲第4番《イタリア》を作曲し、1833年5月13日に初演。序曲の作曲はうまくいかなかったものの、それまでフィルハーモニー協会で演奏されていなかった序曲《トランペット》を6月10日に改訂初演している。

ロンドンという場に合わせて

さて、メンデルスゾーンがイギリスで演奏した80曲と、ロンドン・フィルハーモニー協会がメンデルスゾーン不在時にも演奏し続けた作品を概観すると、「演奏会用序曲」が突出して多いことがわかる。《真夏の夜の夢》、《フィンガルの洞窟》、《静かな海と楽しい航海》、《美しきメルジーネの物語》、《トランペット》。これだけで25回である(18年間で、だ)。メンデルスゾーンが指揮をした他の作曲家の作品でも、ウェーバーの祝典序曲など11曲もある。そして批評でも、たった10分の序曲に大きく紙面が割かれていた。これにはカラクリがあって、フィルハーモニー協会では1回の演奏会につき、最低でも2曲、多い時は4曲の序曲が演奏されていたのだ。だから、序曲は多数必要だった。メンデルスゾーンは「序曲作曲家」としての地位を築いていくのだが、それが、ロンドンにおける序曲需要に合致しているのは、大変おもしろい現象だろう。

さらにこの序曲、《真夏》は言うまでもなくシェイクスピアの作品。《フィンガル》は初めてのイギリス訪問でのスコットランド旅行で着想を得た作品。《静かな海》もイギリス訪問に関係がある作品だ。もちろん、《真夏》はずっと以前に作曲された曲なので、「イギリス向け」と考えるのは、ただの後付けだろう。それでも、当地での批評はシェイクスピアやイギリスに関連付けて絶賛するものだった。『ハルモニコン』に《真夏》は4回も取り上げられた。その1つは次のとおり。「作曲家が詩人の高度に詩的なアイデアに音楽的な色彩を与えた空想的で独創的な方法は、彼が芸術の資源を使いこなし、詩人の感情に完全に寄り添っていることを示している」。

ドイツの指揮者として

ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者となってからの6回の訪問のうち3回はバーミンガム音楽祭だった。そのため、フィルハーモニー協会での演奏会は1842年の第7回訪問まで間が空くが、この時は演奏会全体を指揮する「指揮者」として招聘された。そして2年後の8回目の訪問では(下表)、シーズン中の全てのコンサートの指揮を依頼され、実際、5月以降の5回の演奏会を全て指揮した。これらの演奏会のプログラムは、本人の作品の他、イギリス人作曲家のベネットの作品が1曲だけ演奏された他は、全て(広義で)ドイツ人作曲家の作品だった。そればかりでなく、ベートーヴェンの序曲《レオノーレ》等いくつものドイツ人の作品をイギリス初演している。この記録からは、彼がドイツの音楽をイギリスに紹介する役目を担っていたことが垣間見える。

もうひとつ、1844年の訪問で特筆すべき事項は、オラトリオ《パウロ》のアルベルト侯臨席での御前演奏だろう。このあと、長年筆を中断していたオラトリオ《エリヤ》作曲を再開し、1846年のバーミンガム音楽祭で初演に至るのである。ちなみにこの《エリヤ》初演時には、ベートーヴェンの交響曲第7番も演奏され、翌日にはヘンデルの《メサイア》、自身の劇音楽《真夏の夜の夢》が演奏されている。そして最後の1847年の訪英では、《エリヤ》の改訂稿を各地で上演、ヴィクトリア女王夫妻臨席の大演奏会も開催されたのである。

第8回イギリス演奏旅行(1844年)の全貌※1

※1 この他、オルガンの演奏会などがいくつかある(今回ふれられなかったが、オルガニストとしてもかなり活動していた)。また演奏曲目が不明なものについては省いている。 ※2 Sacred Harmonic Society

ジュピター210号掲載記事(2025年1月20日発行)

プロフィール

音楽学

小石かつら

京都市立芸術大学大学院でピアノ、ライプツィヒ大学、ベルリン工科大学、大阪大学大学院で音楽学を学ぶ。博士(文学)。共訳書に『ギャンブラー・モーツァルト』(春秋社)など。現在、関西学院大学文学部教授。