チェンバロの視点からフォルテピアノを見る

チェンバロの視点からフォルテピアノを見る

2026.03.21 エッセイ ベートーヴェン 筒井はる香

「ベートーヴェンの時代のピアノは、現代のピアノとどう違うのですか?」と問われることがある。かつて私も同じように疑問を抱き、古楽器であるフォルテピアノ(現代のピアノの前身)の研究を始めた。今から25年ほど前、チェンバロ・フォルテピアノ奏者の故小島芳子さんから、それはベクトルが違うのではないかと諭されたことがある。つまり、現代の視点からフォルテピアノを進化論的なフィルタを通して見るのではなく、過去から見てみることが大切だと教えていただき、その時は稲妻が落ちたというのは言い過ぎかもしれないが、まさに目から鱗が落ちる思いだった。

チェンバロの精神

確かに初期のフォルテピアノはチェンバロと似ている点が多い。たとえば音色。筆者が授業などで初期のフォルテピアノの録音を流した時に受講生たちが口をそろえていうのが「チェンバロみたいな音ですね」だ。次に軽いタッチ。ベートーヴェンの時代のフォルテピアノで音を出すのに最小限必要な重量は、製作者や年代によって誤差はあるものの、30~60g程度である。これは現代のピアノの重い鍵とは対照的で、腕の重みより指先の繊細なタッチが必要なのはチェンバロに近い。そして音の減衰の速さ。どちらも音が鳴り出してから消えるまでの時間が短い。このような特性をもつため音を持続させる際には装飾音やトリルを多用していた。そう、このようにフォルテピアノは、チェンバロの精神を受け継ぎつつ、新しさを身に纏い、だんだんとピアノらしくなっていった楽器なのだ。

チェンバロ:アトリエ・フォン・ナーゲル社製 (住友生命いずみホール所蔵)

クリストーフォリの発明

チェンバロから脱却した最初の第一歩は、新しい機構によって指で強弱をつけられるようにしたことだ。その証拠に、バルトローメオ・クリストーフォリが発明したピアノは「弱い音と強い音が出るチェンバロClavicembalo col piano e forte」と命名された。またチェンバロにはないピアノ独自の装置として挙げられるのが、ダンパーを弦から離して音を持続させるダンパーペダルである(その名称や操作の仕方は時代や地域によって異なる)。

[1726年、フィレンツェ]
クリストーフォリのピアノ

ピアノに付与されたこの装置がベートーヴェンの作品では存分に生かされている。ピアノ・ソナタ第14番(1801年)の第1楽章を例に見てみよう。この作品は詩人のレルシュタープが「月光に照らされたスイスのルツェルン湖に揺らぐ小舟のよう」と表現したことから「月光」の愛称で知られるようになった幻想曲風ソナタだ。そこには、「全体を通して極めて繊細にソルディーノなしで(Senza Sordino)演奏されなければならない」と記されている(ソルディーノは、弱音器という意味もあるがここではダンパーと同義語で使われている)ので、1楽章を通してダンパーペダルを使って演奏することになる。1小節間に低音が半音階で下行する部分などでは不協和音が重なり合い、濁りが生じるが、この濁りこそチェンバロにはない新しい響きであった。チェルニーの言葉を借りると、「非常に柔らかく打鍵される個所では、時として幾つかの不協和音が連続したとしても(中略)エオリアン・ハープのような柔らかく漂う効果」をもたらす。

ピアノ・ソナタ第14番 第1楽章(1801年)

ピアノを歌わせるベートーヴェン

とはいえ、ベートーヴェンは当時のピアノとその奏法に満足していたわけではないようだ。彼が懇意にしていたピアノ製作者に宛てて次のように記した。「クラヴィーア(=ピアノ)の演奏法が、あらゆる楽器のなかでもっとも遅れ、開発されていないことは疑う余地がありません。この楽器をハープと聞き間違えることがしばしばあるからです。あなたは、クラヴィーアでも歌うことを理解し、それを感じとれる数少ないひとりであることをたいへんうれしく思います」。(1796年8月または9月アンドレアス・シュトライヒャーに宛てた手紙)この手紙から、ベートーヴェンが望んだのは人声のごとく歌わせることができるピアノだったことが推察できる。

その後、改良が進み、音を長く響かせることができるようになり、ピアノ独自の表現も開発されていった。例えば1803年にパリのエラール社から作曲家のもとにピアノが届くと、pp(ピアニッシモ)からff(フォルティッシモ)までのダイナミック・レンジが広く、和音の厚みのある劇的なソナタ第23番「熱情」(1804/5年)が生まれた。さらに1818年にロンドンのブロードウッド社からピアノを受け取った後、ソナタ第31番(1821年)の第1楽章のカンタービレで歌う美しい旋律が生まれたことは偶然ではない。このように、ピアノが改良の途中にあったことがかえって作曲家の創作意欲を掻き立て、新たなインスピレーションを与えたのではないだろうか。もしすでに完成された楽器であったなら、32曲ものソナタは書かれなかったかもしれない。

創造の追体験

さて、私たちがベートーヴェンの時代の楽器について知ることの意義はどこにあるのだろうか。歴史を「現在から過去」へ遡ると、未改良または不完全な部分ばかりに目が向きがちである。しかし「過去から未来」へ、チェンバロからピアノへ視線を向けると、当時の人々が手に入れた新しい表現の可能性が鮮やかに見えてきて、ベートーヴェンも味わったかもしれない高揚感を追体験することができるだろう。

※バルトローメオ・クリストーフォリ(1655‐1731)・・・イタリアの楽器製作者。ハンマーで弦を叩くメカニズムアクションを発明。ダンパーは弦の振動を止めて音を消す装置で、ペダル操作で弦から離れると音が持続する。
※アンドレアス・シュトライヒャー(1761‐1833)・・・ピアニスト・音楽教師。19世紀ウィーンを代表するピアノ製作会社シュトライヒャーの工場主マリア・アンナ(愛称ナネッテ)・シュトライヒャーの夫。

ジュピター217号掲載記事(2026年3月12日発行)

プロフィール

Haruka Tsutsui

筒井はる香

音楽学者。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。現在、同志社女子大学学芸学部准教授。著書に『フォルテピアノー19世紀ウィーンの製作家と音楽家たち』(アルテスパブリッシング2020年)、共著に『新訂 西洋音楽史』(放送大学教育振興会2021年)など。

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