私のバッハ、この1曲【最終回】鈴木優人(指揮、作曲、鍵盤楽器奏者)《マタイ受難曲 BWV244》
2026.01.23 連載 鈴木優人 長井進之介
ヨハン・セバスティアン・バッハの音楽は音楽史上で重要な存在であると同時に、アーティストたちにとってもさまざまな形で大切なものとなっている。それぞれどんな作品が好きで、どんな思い出があるのか、ぜひ知りたいところだ。本インタビューでは、多くの方が気になるその疑問を尋ねていく。今回は、指揮者、鍵盤楽器奏者、作曲家など幅広い顔を持ち、『バッハ2025 綾なす調和』のVol.3「深き淵より」にもご出演いただいた鈴木優人さんに、「この1曲」についてお話いただいた。
「《マタイ受難曲 BWV244》です。挙げたい曲はもちろんたくさんあったのですが、バッハの作品目録(BWV)は作品ジャンルごとに分類されており、教会音楽から開始しています。※シュミーダーの思うように、私もバッハの音楽の本質は教会音楽にあると思います。この曲は実質的には教会カンタータの拡大版という感じ。バッハがカンタータを演奏できない四旬節の時期に、人生でこれほど根を詰めて書いた曲は唯一じゃないかと―そう考えて、この曲を選びました」
出会いは住友生命いずみホール
この曲との出会いは非常に早い時期であったという。
「小学校の3年の頃、いずみホールが開館しました。その際に父である鈴木雅明の指揮でバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)が《マタイ受難曲》を演奏することになりました。当時はまだカンタータもあまり演奏していない頃でしたから、父にとってこの曲は非常に大きな曲。知恵熱を出して寝込むほど。そんな姿を見ていた記憶があります。その後、小学校6年生の頃、いろいろな演奏のCDが自宅にあったのですが、父の師匠でもあるトン・コープマンの演奏の録音を毎日聴くようになりました。朝食のときからはじまり、学校から帰って塾に行くまでの間に…という具合で。すっかり魅了されてしまい、夏休みの自由研究で『《マタイ受難曲》その深淵なる世界へ』というタイトルでレポートを書き提出したほどでした。思い返すと、私の人生にとって、非常にセンセーショナルな曲だったのですよね。そのあと《ヨハネ受難曲》に強く惹かれてそちらばかり聴く、という時期もありましたが、やはり《マタイ》の視聴時間は圧倒的ですね」

指揮:トン・コープマン/アムステルダム・バロック管ほか
録音:1992年6月オウドカルスペル(オランダ)
演奏時間が3時間半に至る大作だが、特定の楽曲を抜粋して聴く、というのではなく、全体を通して聴くのが好きだったという。
「CDが3枚組なので、”今日は2枚目から”ということもありましたが、1曲に集中ということはなかったですね。あの長大な世界に身を置くのが好きだったようです。始めたばかりのフラウト・トラヴェルソをCDに合わせて吹いたり、といったこともしていました」
学生時代からプロへ:演奏と指揮の歩み
やがて大学生になると実際に演奏、指揮する機会も訪れる。
「東京藝術大学バッハカンタータクラブで合唱指揮をするようになったり、BCJではじめて指揮した作品も実は《マタイ》でした。自分で演奏するようになると、当然ですがより作品のなかに没入していける感覚がありますね。また2年前、オランダバッハ協会に呼んでいただき、ゲネラルプローベを含めると2週間と少し、14回通して演奏するという機会がありました。さすがに毎日通して演奏していたら飽きてしまうかな…などと思ったのですが、全くそんなことはありませんでした。あらためてすべてが名曲だと気づかされましたし毎回新しい驚きがありました」
なお、《マタイ》にはこの楽曲を蘇演したメンデルスゾーンによる編曲版があり、鈴木はこの版でも演奏を行っている。
「こちらの版はモダン楽器で演奏するための楽器の変更や楽曲のカットなどが行われていています。もしかしたら聴く際に3時間半という長さがネックになっている、という方には入っていきやすいかもしれません」
鈴木にとって非常に大きな存在感を示している《マタイ》だが、数多あるバッハの教会音楽との違いはどこにあるのだろうか。
「まず2つの合唱団と2つのオーケストラを使用する二重編成だというところですね。またコラールが楽曲のドラマを構成するうえで大きな役割を果たしているところも大きいです。転調によって音楽を展開させたり、緊張感を与えたりと非常に重要なのです。また楽器の使い方も特殊なのです。特にオーボエ属についてはオーボエ、オーボエ・ダ・カッチャ、そしてオーボエ・ダモーレを非常に多く持ち替えてそれぞれの魅力を聞かせるという点も印象深いですね」
これまでの演奏活動で多くの作品を指揮してきた鈴木だが、同時に彼は鍵盤楽器奏者としてもバッハの作品を魅力的に奏でてきた。演奏するうえで印象的に残っている楽曲はあるのだろうか。
「《平均律クラヴィーア曲集第1巻》第1番の前奏曲は家のチェンバロで母が手ほどきをしてくれた記憶が残っています。また演奏会で取り上げた《イタリア協奏曲》や《半音階幻想曲とフーガ》といった楽曲、父と共演した《2台のチェンバロのための協奏曲》も印象深いですね。また、通奏低音奏者としてさまざまなアーティストと演奏をご一緒できたこともとても幸せでした」
これからの挑戦と展望
これまで指揮、演奏によってバッハ作品の魅力と感動をたくさん届けてきてくれた鈴木。これからどのようにこの作曲家と向き合っていきたいと考えているのだろう。
「BCJですでにバッハのカンタータを全曲録音しましたが、改めてもう一度取り組みたいと思っています。前回は18年くらいかかっていますし、当然大変なことではあるのですが、これはぜひやってみたいと考えているのです。また、《マタイ受難曲》では第1合唱と第2合唱は通常同じ人数を配置しますが、あえてアシンメトリーにするのも面白そうだなと。いろいろな理由でなかなか実現は難しいと思うのですが、ぜひ挑戦したいと思っています。この作品はまだまだ謎の多い曲で、当時、厳密にはどのように演奏していたのかわかっていない部分もあります。これからも興味の尽きることのない作品ですね」
※ヴォルフガング・シュミーダー・・・ドイツの音楽学者。1950年にバッハの作品番号「BWV」を提唱した。
ジュピター216号掲載記事(2026年1月15日発行)
プロフィール
Masato Suzuki
鈴木優人
バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)首席指揮者、読売日本交響楽団指揮者/クリエイティヴ・パートナー、関西フィルハーモニー管弦楽団首席客演指揮者、アンサンブル・ジェネシス音楽監督。25年1月BCJヨーロッパ公演にて自身の補筆校訂版によるモーツァルト《レクイエム》を7都市で指揮。11月にはパリ管弦楽団と初共演し、現地で好評を博した。BUNKAMURA PRODUCEのモーツァルト・オペラシリーズでは、26年2月に《フィガロの結婚》(美術:隈研吾)にBCJと共に取り組む。NHK-FM「古楽の楽しみ」などメディア出演も多い。第71回芸術選奨文部科学大臣新人賞、第18回齋藤秀雄メモリアル基金賞、第18回ホテルオークラ音楽賞、第29回渡邉曉雄音楽基金音楽賞受賞。調布国際音楽祭エグゼクティブ・プロデューサー。九州大学客員教授。
X / @eugenesuzuki Facebook & Instagram / masatosuzukimusic
プロフィール
Shinnosuke Nagai
長井進之介
国立音楽大学大学院修士課程器楽專攻(伴奏)修了、同大学院博士後期課程音楽学領域単位取得。 2007年度〈柴田南雄音楽評論賞〉奨励賞受賞。著書に『OHHASHI いい音をいつまでも』(創英社/三省堂書店)など。インターネットラジオ「OTTAVA」プレゼンターおよび国立音楽大学大学院伴奏助手、群馬大学共同教育学部非常勤講師。
関連公演情報
- 関西フィルハーモニー管弦楽団 住友生命いずみホールシリーズ
「鈴木優人のベートーヴェン・ヒストリー」(全9回) - 主催:関西フィルハーモニー管弦楽団
協賛:住友生命いずみホール
ベートーヴェン没後200年へ―交響曲全9曲を軸に、その生涯をたどるシリーズ。 鈴木優人(指揮)と豪華ゲストとの共演で、ベートーヴェンの真髄に迫ります。
※日程、出演者、曲目、曲順など、内容が変更になる場合がございます。あらかじめご了承ください。
【第4回】2026年5月24日(日)15:00開演(14:00開場)
「エグモント」序曲 op.84
ピアノ協奏曲 第4番 op.58
(フォルテピアノ:キット・アームストロング)
交響曲 第4番 op.60
【第5回】2026年9月6日(日)15:00開演(14:00開場)
「献堂式」序曲 op.124
ピアノ協奏曲 第5番 op.73 「皇帝」
(フォルテピアノ:エリック・グオ)
交響曲 第5番 op.67 「運命」
【第6回】2027年3月5日(金)19:00開演(18:00開場)
「シュテファン王」序曲 op.117
ヴァイオリン協奏曲 op.61
(ヴァイオリン:佐藤俊介)
交響曲第6番 op.68「田園」