音楽と、風景と、身体と「歌う新星」

音楽と、風景と、身体と「歌う新星」

2026.09.18 エッセイ 堀朋平エッセイ 堀 朋平

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ32曲を、8人のピアニストが、およそ1年半にわたって弾き継ぐ「彗星 8つの軌道」がスタートしました(7月23日)。

幕を開けてくれたのは、最年少にして、最終作の入ったプログラムを選ばれた新星=鈴木愛美さん。ホールご近所の夕陽丘高校ご出身です。当日は頬を紅潮させた高校生たちもロビーを賑わせてくれました。

このたび、8回ぶんの選曲に際して重視したのが「調の色」です。初回は「ハ短(長)調」を縦糸に、初期と後期のつながりを味わっていただきたかった。そんな意図を汲んで鈴木さんは、本番までにゆっくり時間をかけて、ひとつの物語を描いてくださいました。4曲を「3+1」に分け、前半を大きな3楽章制ソナタのように作りあげてくれたのです。

結果として、「4曲のどれが欠けても成り立たない」とすら思わせる堅固さでしたが、スタイルは自然体。音はとにかく繊細で、ガラス細工のよう。フォルテを期待して身構えるところも、ふわりと微分的に奏でる。この点で忘れがたいのが、アンコールのシューベルト《楽興の時》第2番。感情が噴出する箇所も、まるで静かな「さすらいの歌」のよう。シューベルトの歌がベートーヴェンを眠りにつかせているんだな、と思わずにはいられませんでした。 そう。鈴木愛美さんの弱音は子守唄みたいに聴こえた。そういえばデビューアルバム(NAXOS 2025年7月)でも、ギリシア神話の女たちに照準したシマノフスキ《メトープ》が全体に女の声を強烈に沁み込ませていたっけ……。

「今回のチクルスに臨んで、1曲ずつ単独で弾くときと変えたところはありましたか」と終演後に楽屋でお聴きしたら、「すべての緩徐楽章に試行錯誤を繰り返しました」と。この言葉どおり、最終作(第32番)の歌を終局として、静謐さの”糸”がくっきり通っているのを感じた夜でした。お聴きになった皆さまはどうお感じになりましたか?

ご来場くださった方も、そうでない方も、いつかまた鈴木愛美さんの「第32番」を聴けるのを楽しみにいたしましょう。そのときは、たぶん今回とぜんぜん違う物語が“歌われる”はず。

ジュピター220号掲載記事(2026年9月8日発行)

プロフィール

Tomohei Hori

堀 朋平

住友生命いずみホール音楽アドバイザー。国立音楽大学・九州大学ほか非常勤講師。東京大学大学院博士後期課程修了。博士(文学)。『わが友、シューベルト』(アルテスパブリッシング、2023年)で令和5年度芸術選奨文部科学大臣新人賞(評論部門)受賞。著書『〈フランツ・シューベルト〉の誕生――喪失と再生のオデュッセイ』(法政大学出版局、2016年)、共著『バッハ キーワード事典』(春秋社、2012年)、訳書ヒンリヒセン『フランツ・シューベルト』(アルテスパブリッシング、2017年)、共訳書バドゥーラ=スコダ『新版 モーツァルト――演奏法と解釈』(音楽之友社、2016年)、ボンズ『ベートーヴェン症候群』(春秋社、2022年)など。やわらかな音楽研究をこころざしている。

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