【連載】ベートーヴェンの「献呈」戦略 第3回 ひとつの曲をふたりに献呈!?

【連載】ベートーヴェンの「献呈」戦略 第3回 ひとつの曲をふたりに献呈!?

2026.09.17 かげはら史帆 連載

もしも、名のある作曲家が自分に曲を捧げてくれたら。──多くの人はこう信じるだろう。作曲家はこの作品を与えるに値する存在として、この世でただひとり自分を選んでくれたのだと。そして喜び勇んで曲を受け取り、自慢し、心の拠り所にし、家宝にするだろう。

ところが。ベートーヴェンは、ひとつの曲をふたりに献呈してしまうことを厭わない作曲家だった。音楽学者のアルトゥール・ペレイラ氏によれば、「二重献呈」が明確に確認できるのは全部で4作。やろうと思ったが断念した未遂はもっと沢山あったようだ。あたかも婚約指輪を同時にふたりに渡してしまうような暴挙(?)である。なぜベートーヴェンは、かような二重献呈を企てたのだろうか。ケースごとに紐解いていこう。

ベートーヴェン作曲『ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111』ベルリンのシュレジンガー社による初版譜表紙(1822年出版)。中央部に献呈相手であるルドルフ大公の名前。
From IMSLP
https://imslp.org/wiki/File:PMLP01489-Op.111.pdf

ベートーヴェン作曲『ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 Op.111』ロンドンのクレメンティ社による初版譜表紙(1823年頃出版)。中央部に献呈相手であるアントニー・ブレンターノ夫人の名前。
©From the collections of the Ira F. Brilliant Center for Beethoven Studies, San José State University.

ケース1
「姉妹の女弟子に捧げる」

4作のうちもっとも事情が明確なのが、『ゲーテの詩「君を思う」による4手のための6つの変奏曲』である。献呈相手はブルンスヴィック家の令嬢姉妹、テレーゼとヨゼフィーネ。彼女たちは1799年頃からベートーヴェンのピアノの弟子になり、ふたり揃ってレッスンを受けていた。姉妹はどちらもベートーヴェンの恋人であったという説があり、特に妹のヨゼフィーネは、ベートーヴェンが1812年に書いた宛先不明のラブレター「不滅の恋人への手紙」のお相手ではないかといわれている。だが、この作品においてはカモフラージュのためか(?)姉妹仲良く曲の献呈を受けている。表紙に冠された女性ふたりの名前は、易しい連弾作品にぴったりの華やかさで、購買にも大きな効果を発揮したと思われる。

ベートーヴェン作曲『ゲーテの詩「君を思う」による4手のための6つの変奏曲 ニ長調 WoO 74』ウィーンの美術工芸社による初版譜表紙(1805年頃出版)。中央部に献呈相手であるブルンスヴィック姉妹の名前。
©Beethoven-Haus Bonn
https://www.beethoven.de/en/media/view/4525796983046144/scan/0

ケース2
「パトロンふたりに感謝を示す」

かの有名な『交響曲第5番 ハ短調』(通称「運命」)と『交響曲第6番 ヘ長調「田園」』も、ふたりの人物に献呈されている。 これらは2作とも、フランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ侯爵とアンドレアス・ラズモフスキ―伯爵の両名に捧げられた。リヒノフスキー侯爵と袂を分かった後、彼らはベートーヴェンのもっとも重要なパトロンとなり、1808年12月22日の両交響曲の初演においても多大な協力を惜しまなかった。ベートーヴェンは彼らに感謝を示すため、異例の連名献呈に踏み切ったと考えられている。 ふたりのパトロンに献呈したい事情は理解するにしても、傑作と呼びうる交響曲が2作あるのだから、1作ずつ献呈すればいいのにと思うかもしれない。この疑問については、以下の裏事情が謎解きの鍵になるかもしれない。実はベートーヴェンは、『交響曲第5番』をフランツ・フォン・オッペルスドルフ伯爵からの委嘱によって書き始めており、彼から早々に前払金を受け取っていた。ところが作曲の途中で、この交響曲を別方面に売り出してもっと大きな利益にしようと考えを変えてしまった。ふたりの大パトロンの名前を仰々しく表紙に並べたのは、オッペルスドルフ伯爵を諦めさせる(あるいは納得させる)ための威圧感を出したかったからではないか、と筆者は推測している。また別の解釈として、大崎滋生氏は、この2つの交響曲の「ペア」感を強調したかったのではないかという説を提示しており、これも非常に興味深い。

ベートーヴェン作曲『交響曲第6番 ヘ長調「田園」Op.68』ライプツィヒのブライトコプフ・ウント・ヘルテル社による初版譜表紙(1809年出版)。中央部に献呈相手であるふたりのパトロンの名前。
©Beethoven-Haus Bonn
https://www.beethoven.de/en/media/view/5777241401196544/scan/0

ケース3
「エリアごとに献呈相手を変える」

『ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調』は、出版譜の刊行エリアごとに献呈相手が異なるケースである。ベルリン、ウィーン、パリなどの大陸地域での出版譜ではパトロンのルドルフ大公、ロンドンの出版譜ではアントニー・ブレンターノ夫人の名前が献呈相手として刻まれている。どうやらベートーヴェンは、献呈は作品ごとではなく出版譜(=商品)単位で変えてよいという考えを持っていたようで、特に大陸圏とイギリスの版元の商品を明確に区別していた。

献呈相手を変える利点は、1つ目に、献呈相手から感謝の意や謝礼金を二重取りできること。2つ目に、経済圏の異なるイギリスに対して独自のアプローチを図れること。3つ目に、多方面においてごまかしが効くことである。ブレンターノ夫人をベートーヴェンの「不滅の恋人」とみなしている青木やよひ氏は、このロンドン版の献呈は、ベートーヴェンと夫人間の「秘めた含意」ではないかと論じている。彼らが住むドイツ語圏ではルドルフ大公に献呈された版が流通しているので、遠いイギリスでブレンターノ夫人への献呈版を刊行しても、密かな愛の表明が世間にバレずに済む──というわけだ。

筆者自身は、必ずしもこの青木説を支持するわけではない。ただ、ベートーヴェンが作品の献呈をめぐってさまざまなビジネス上の駆け引きや小細工を日常的に行っていることは明白であり、それを個人の恋愛に応用したことがあったとしても決して不思議ではない。彼が誰かに婚約指輪を渡すとき、そこには必ず一筋縄ではいかない企みがひそんでいるのである。

参考文献
青木やよひ『決定版 ベートーヴェン(不滅の恋人)の探究』
平凡社、2007年

ジュピター220号掲載記事(2026年9月8日発行)

プロフィール

Shiho Kagehara

かげはら 史帆

文筆家。著書『ピアニストは「ファンサ」の原点か』(河出新書)、『ニジンスキーは銀橋で踊らない』(河出書房新社)、『ベートーヴェンの愛弟子』(春秋社)、『ベートーヴェン捏造』(柏書房/河出文庫)。ほか各種メディアに小説、エッセイ、書評などを寄稿。

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