【連載】ベートーヴェンの「献呈」戦略 第2回 作品番号1 ~「献呈」戦略の誕生

【連載】ベートーヴェンの「献呈」戦略 第2回 作品番号1 ~「献呈」戦略の誕生

2026.07.24 かげはら史帆 連載

1793年。故郷のボンからウィーンに居を移して9ヶ月。ベートーヴェンは、「作品番号1」として『モーツァルトの「フィガロの結婚」の主題による変奏曲』を出版した。版元はウィーンのアルタリア社。献呈相手は、一説に初恋の人といわれる故郷の幼馴染の女性、エレオノーレ・フォン・ブロイニング。ピアノを含む変奏曲という「女性的」なジャンルに、献呈相手は女性貴族。ケチのつけようのない完璧な布陣である。ところが、それからわずか2年後の1795年。なぜかもうひとつの「作品番号1」が世に放たれた。『3つのピアノ三重奏曲』。版元はやはりウィーンのアルタリア社。──いったいなぜ、記念すべき「作品番号1」が重複するような事態が発生したのか。その謎を解く鍵は、後者の献呈相手──ベートーヴェンのパトロンであるカール・フォン・リヒノフスキー侯爵にある。

ベートーヴェン作曲『モーツァルトの「フィガロの結婚」の主題による12の変奏曲』初版譜表紙(1793年出版)。中央部に献呈相手の名前、作曲者名の下部に「Oeuvre I(作品番号1)」。今日ではWoO 40 の作品番号で知られている。
©Beethoven-Haus Bonn 
https://www.beethoven.de/de/media/view/4861886227021824/scan/0

ベートーヴェン作曲『3つのピアノ三重奏曲』アルタリア社による初版譜表紙(1795年出版)。中央下部に献呈相手の名前、作曲者名の下部に「Oeuvre I(作品番号1)」。
©From the collections of the Ira F. Brilliant Center for Beethoven Studies, San José State University.

2つの「作品番号1」の謎を解く

ベートーヴェンがウィーンにやってきたのは、まもなく22歳になる頃だった。身ひとつで何のつてもないまま新生活を始めたわけではない。ハイドンに師事することはすでに決まっていたし、自力でアパートを探す必要もなかった。最初の2年半、彼はリヒノフスキー侯爵が所有する建物の中に住んでいる。最初は屋根裏部屋、そして1階、次に2階へ。侯爵は、不慣れな青年がウィーンでの生活に困らないよう、こまごまと世話を焼いた。

侯爵は芸術愛好家であり、自身もすぐれたピアノ演奏者であった。そして、音楽家志望の才能ある若者を支援することに無上の喜びを感じる性分だった。ベートーヴェンの盟友のヴァイオリニスト、イグナーツ・シュパンツィヒは、侯爵の庇護のもとで弦楽四重奏団を組んで活動した。ベートーヴェンの弟子のカール・チェルニーは、侯爵の家で毎朝ピアノの御前演奏をして、家計の助けになる贈り物の数々を賜った。同じく弟子のフェルディナント・リースも、侯爵の領地への旅に同行した思い出を書き残している。いずれも彼らが10代から20代はじめの頃の話だ。

現代でたとえれば、青少年の育成に長けた芸能プロデューサーというイメージがしっくり来るだろうか。かつてモーツァルトのパトロンでもあった侯爵は、音楽業界の事情通であり、若い音楽家にどういうサポートが必要か熟知していた。当時のモーツァルト・リバイバルに便乗したライトな趣の『変奏曲』をなかったことにし、より本格的な芸術作品である『ピアノ三重奏曲』を作品番号1として出し直したのは、彼の提案だったのではないかとも想像できる。重厚で演奏の難易度も高いこの3作の三重奏曲は、決して売れやすい作品ではなかった(実際、予約は好調だったが、期待ほどには売れなかったといわれている)。だが、侯爵はこの出版にあたって、初版譜を一族で52部も買うという形でバックアップを行っている。献呈相手として自身の名を選ばせたのも、名の知れた音楽のパトロンたる侯爵のもとで目下育成中の若き音楽家だということを世間にアピールする意図があったと推測される。

作品番号1を出し直す。そして献呈相手を戦略的に選ぶ──ベートーヴェン自身もこの出版から、多くのノウハウを学んだことだろう。となると、続く作品番号2『3つのピアノ・ソナタ』を師ハイドンへ捧げたのも自然な流れである。「目利きのリヒノフスキー侯爵の庇護下にあり、巨匠ハイドンの弟子である」という強力なブランディングは、絶賛売り出し中の音楽家に大きな価値をもたらした。ベートーヴェンが成功を収めたあとも、リヒノフスキーは演奏旅行の実施や年金支給などの支援を続けている。べートーヴェンもそれに応える形で計10作もの作品を彼と彼の家族に捧げ、良好な関係を世に表明し続けた。

カール・アロイス・フォン・リヒノフスキー伯爵(1761-1814)
From Wikimedia Commons

「大喧嘩」後も続いた献呈

リヒノフスキー侯爵とベートーヴェンとの長い蜜月は、1806年に終焉を迎えたといわれている。侯爵の領地のグレーツ城でふたりは大喧嘩し、ベートーヴェンは書きかけの『熱情ソナタ』の自筆譜を抱えてウィーンに帰ってしまった。この名作ソナタは、当然ながらリヒノフスキー侯爵ではない別の貴族──フランツ・フォン・ブルンスヴィック伯爵に捧げられた。

だが、それから9年後。ベートーヴェンは侯爵の弟であるモーリッツ・フォン・リヒノフスキー伯爵に『ピアノ・ソナタ第27番』を捧げている。奇しくも侯爵の死の翌年である。この弟モーリッツは、兄とベートーヴェンが喧嘩別れしたあとも地道な支援を続けており、このソナタはその返礼であったと考えられる。モーリッツは兄と不仲であったという説もあるが、それでもパトロネージの精神は受け継がれ、ベートーヴェンもそれに「献呈」で応えた。この「作品90」は、「作品1」から始まった両者の関係の最後の証明である。

ベートーヴェン作曲『ピアノ・ソナタ第27番 ホ短調 Op.90』シュタイナー社による初版譜表紙(1815年出版)。中央部に献呈相手の名前。
©Beethoven-Haus Bonn 
https://www.beethoven.de/de/media/view/5414941280436224/scan/0

※ジュピター219号掲載記事(2026年7月15日発行)

プロフィール

Shiho Kagehara

かげはら 史帆

文筆家。著書『ピアニストは「ファンサ」の原点か』(河出新書)、『ニジンスキーは銀橋で踊らない』(河出書房新社)、『ベートーヴェンの愛弟子』(春秋社)、『ベートーヴェン捏造』(柏書房/河出文庫)。ほか各種メディアに小説、エッセイ、書評などを寄稿。

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