スペシャリストによるバッハ畢生の作品 「クラヴィーア練習曲 第3部」を聴く 鈴木雅明(パイプオルガン)インタビュー

スペシャリストによるバッハ畢生の作品 「クラヴィーア練習曲 第3部」を聴く 鈴木雅明(パイプオルガン)インタビュー

2026.07.29 インタビュー

バッハ作品の演奏解釈で世界的に知られた鈴木雅明が2026年9月、21年ぶりに住友生命いずみホールのオルガンでリサイタルを行う。
演奏するのは、バッハ『クラヴィーア練習曲集 第3巻』。作曲家自ら1739年に刊行したこの曲集の音楽は、ルター派教会音楽の根幹をなすコラール(会衆讃美歌)の様々な旋律をもとに構成されている。コラールの各原曲をソプラノ松井亜希が独唱し、バッハがそれをどのようにオルガン上で展開していったか鈴木の演奏を通じて辿れる聴き応え充分のプログラムだ。

コラールをもとに組まれた、バッハ唯一の曲集

『クラヴィーア(鍵盤)練習曲集』は、バッハがライプツィヒ聖トーマス教会でカントルとして教会カンタータを集中的に書いていた時期の後、自費で楽譜出版したシリーズ。鍵盤楽器に通暁した作曲家の集大成ともいうべき意欲作が並ぶ。1726年に最初の組曲が単独刊行され、6編の組曲をまとめ1731年に出版された第1巻(通称『パルティータ』BWV 825~830)、1736年の第2巻(イタリア協奏曲BWV 971・フランス序曲BWV 831)とチェンバロ向けの曲集が続いた後、3巻目で満を持して教会オルガン向けの曲集がまとめられた。

バッハが奉じたルター派キリスト教では、人々が集いシンプルな旋律に乗せてコラールを唱和することが重視されており、バッハもその旋律の数々をもとに礼拝向けの声楽曲(カンタータ、受難曲)やオルガン曲を書いている。『クラヴィーア練習曲集 第3巻』はルター派礼拝に組み込まれていたミサの2章(カトリックの「キリエ」と「グローリア」に相当)を彩るコラールの数々に基づく曲21曲、大がかりな変ホ長調のプレリュードとフーガ、さらに奏者の両手で二つの旋律を別々に弾くデュエット4曲からなる曲集。津々浦々の教会に奉職したオルガン奏者こそがプロ鍵盤音楽家の大半だった当時、この楽器で弾く礼拝音楽と今日でいう絶対音楽とが網羅されており、バッハの意気込みもよく伝わってくる。

「バッハの音楽ではコラールが非常に重要なんです」、鈴木雅明は語る。「2024年から今年の始めまで、そのちょうど300年前にバッハがコラールを基に書いた教会カンタータ群(コラール・カンタータ)をバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)と重点的にとりあげてきました。その流れでの選曲でもあります。実は、彼がコラールをもとに作曲した"曲集"はこれが唯一なんですよ。晩年の『ライプツィヒ・コラール集』は同一時期の曲ばかりでない上に未完成ですし、若い頃の『オルゲルビュヒライン』も個別に書かれた曲をまとめたものですから。」

実演に触れる、貴重な演奏会

作曲家の意欲は、曲集に秘められた数字にも表れている。「これが3巻目の曲集で、3の倍数の年、18世紀の39年目を待って刊行されました。プレリュードとフーガは各3部分で構成されている上に変ホ長調、つまりフラットを三つ使う調で書かれています。コラールに基づく収録曲は7×3で21曲。最後にオルガンの足鍵盤を使わないデュエットが4曲あるのは、それで収録曲数を27にできるからとも言われます。3の三乗、究極の象徴ですね」

キリスト教で神を表わす数字3へのこだわり。バッハにとって重要な曲集だったのは明らかだ。しかし実演で光が当たる機会は意外に少ない。
「なにしろ難しいですからね。"練習曲"です、練習しないと弾けない……なかなか大変なんです、楽しいですけどね。美しいソロ旋律が目立つ装飾コラールの楽章がなく、コラール旋律にもとづく多声の曲ばかりなのも難しさの一つかもしれません。『クラヴィーア練習曲集』シリーズやこの後に出る『フーガの技法』などにも言えますが、こういった曲集では抒情性[オペラに通じる歌謡性]は主眼になかったのかもしれませんね」

"練習"という点に関しても示唆的な話を伺えた。「現代的な練習専用オルガンなんて当時はありませんでした。練習しようにも自分が音を出したら町中の人に音が届いてしまうのがオルガン。カリヨン[鍵盤で演奏する音階付きの教会の鐘]と同じで、過酷な存在なんです。チェンバロや今のピアノのように、個人的に弾くという発想が基本的になかった。音を出したら徹頭徹尾、公的な場に提供されてしまう楽器ですからね」

鈴木はこの曲集と実演でどう向き合ってきたか。「学生時代にはアムステルダムのヴァールセ教会で全曲演奏しました。ライプツィヒの聖トーマス教会でも一度……あとはライプツィヒ近くのナウムブルクという町にある、バッハ自身が鑑定演奏した1746年製の歴史的オルガンでも弾いたこともあります。ヨーロッパでは何度もとりあげてきましたが、最近では韓国でも、また昨年は横浜みなとみらいホールで演奏しましたね」

バッハ畢生のこの重要作をいずみホールのオルガンで、鈴木雅明の解釈で聴ける機会が巡ってきたことは、今から四半世紀以上前、当時出来たばかりの東京藝術大学奏楽堂のオルガンでこれを全曲録音した鈴木のアルバムをご存知の方々にとっても朗報だろう。アルバムでも声楽家たちがコラール原曲を歌っているが、今回はソプラノ独唱でそれらの旋律が歌われる。「テノールでもよいですが、やや低めのソプラノの声域は最適ですね。BCJでも共演している松井亜希さんがこれに非常にふさわしいと感じています」

住友生命いずみホールの楽器で弾くバッハ

いずみホールの楽器は、フランス東部アルザス地方に工房を持つオルガン建造家イヴ・ケーニヒが手がけている。アルザスは歴史的にドイツの一部だった時代が長く、バッハと縁深かったオルガン建造家も輩出した地域だ。「イヴ・ケーニヒ氏のお父様[ジャン=ジョルジュ・ケーニヒ]も立派な建造家で、フランス・モーゼル地方のティオンヴィルという町にある素晴しい楽器を弾いたことをよく覚えています。いずみホールのオルガンは一連のリード管の音色をはじめフランス的な性格の楽器でありながら、ドイツの楽器に通じる堅実なプリンツィパル管の音もあります。とはいえ、バッハの曲を弾くのに適した理想的なオルガンというものは実は世の中に存在しないんですよ……彼のオルガン曲を全部弾ける楽器は、世界中に一つもないんです。当時のドイツの楽器でさえ音域が足らなかったり、彼の頭の中にだけ響いていた音が書かれている。」ベートーヴェン後期のピアノ・ソナタにも通じそうな話だ。「ただ逆に言えば、バッハの作品はそれを弾くオルガンによって制約は受けるにせよ、それぞれの楽器の長所を活かして、どんな楽器で弾いてもよいということもできます」

いずみホールのケーニヒ・オルガンは1990年4月、ホール開館時のガラ・コンサートで初めて公に鳴り響いた。鈴木雅明はその時の演奏者であっただけでなく、その折に即興演奏で聴かせたメロディは今もこのホールの開演5分前を知らせる調べとして使われている。18世紀のオルガン奏者は礼拝時に楽譜を見ることなく祈りに音を添えるのが仕事で、その巧みな即興演奏は後日作品として楽譜の形に記されることもあった。そんなバッハの時代の演奏習慣も思い出される。パイプオルガンは一つ一つに個性があり、演奏家も相性の良い曲を選んで楽器に合わせた解釈で弾く。「バッハが楽譜に残したオルガン曲は、全て礼拝向けではない演奏会用の音楽です。教会で弾くにしても礼拝ではなく、音楽として披露することが前提にあります。現代のコンサートホールは全ての音楽ができるように作られているけれど、そこで弾く時にベースをどこに求めるかですね」バッハに深く取り組んできた演奏家の手で、この作曲家の軸というべき曲集と向き合える意義を改めて嚙みしめたい。

プロフィール

Masaaki Suzuki

鈴木雅明

1990年〈バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)〉を創設。グループを率いて欧米の主要なホール、音楽祭に度々登場しており、雄弁かつ透明なサウンド、本質に迫る演奏アプローチで、極めて高い評価を積み重ねている。録音も多く、J.S.バッハのカンタータ全曲および受難曲やミサ曲など全ての声楽曲のCD録音を達成した。独奏では、J.S.バッハのチェンバロ作品全曲を録音し、現在は『J.S.バッハ:オルガン作品全曲』が進行中。2001年ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章。2012年バッハの演奏に貢献した世界的音楽家に贈られる「バッハ・メダル」、ロンドン王立音楽院・バッハ賞を受賞。13年度第45回サントリー音楽賞をBCJと共に受賞。2015年ドイツ・マインツ大学よりグーテンベルク教育賞、2021年Royal College of OrganistsよりRCOメダルを受賞。イェール大学アーティスト・イン・レジデンス、神戸松蔭大学客員教授、東京藝術大学名誉教授、オランダ改革派神学大学及びジュリアード音楽院より名誉博士号授与。

プロフィール

Tatsuo Shirazawa

白沢達生

青山学院大学大学院で西洋美術史を専攻、雑誌編集・輸入商社勤務を経て独立。古楽やクラシック音楽に関する仏・伊・英・独・蘭・西語他翻訳や執筆が活動の中心。雑貨店CD選盤、美術館音声ガイドの選曲監修、企画展ショップの音盤セレクション、音楽書・歴史料理書・マンガ等の監修協力も手がけてきた。演奏会、歴史系イベントやラジオなどで話し手や司会も務める。仏語圏レーベルを中心にクラシックCD解説翻訳・執筆多数。

関連公演情報
午後の特等席 Vol.10 鈴木雅明
パイプオルガン・リサイタル

9/4 (金)14:00開演

【出演】
鈴木雅明(パイプオルガン)、松井亜希(ソプラノ)

【曲目】
J.S.バッハ :《クラヴィーア練習曲集 第3部》ペダル付きコラール全曲

【料金】
一般¥5,000 U-30¥2,000

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午後の特等席 Vol.10 鈴木雅明<br>パイプオルガン・リサイタル