「走り出すベートーヴェン 彗星 8つの軌道」信念としてのベートーヴェン アブデル・ラーマン・エル=バシャ

「走り出すベートーヴェン 彗星 8つの軌道」信念としてのベートーヴェン アブデル・ラーマン・エル=バシャ

2026.08.06 インタビュー

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲シリーズ〈彗星 8つの軌道〉の第2回に登場するのは、レバノン出身のアブデル・ラーマン・エル=バシャだ。

ベートーヴェンという指針

エル=バシャは幅広いレパートリーを持つが、その中でもベートーヴェンのピアノ・ソナタの全曲録音やショパンのピアノ作品の全曲録音など、“全集”のレコーディングも数多い。とりわけ、ベートーヴェンのピアノ・ソナタについては、これまでにライヴでも全曲演奏を行なっている。過去の私とのインタビューの中で、エル=バシャはこのように語っていた。

「私が最初にベートーヴェンのソナタから始めたのは、彼の音楽が私にとって、人生におけるある種の信念であり、いかに生きるべきかという学びの場であり、指針であったからです。私は音楽のことだけではなく、この音楽が持つ意味についても語っているのです」

ベートーヴェンにとって、ピアノ・ソナタは彼の創作の基本であり、交響曲も室内楽曲もピアノ・ソナタの書法を礎としている。彼は、ピアノ・ソナタの中で革新的な試みをさまざまに取り入れた。また、彼のピアノ・ソナタの創作は、楽器の進化の変遷とも重なっている。

「いわゆる純粋なソナタ形式は、作品31の3曲のピアノ・ソナタ(第16番・第17番・第18番)で確立されていました。その後に作曲された第21番「ワルトシュタイン」のピアノ・ソナタにおいて、ベートーヴェンは交響曲を彷彿させるような、さらにスケールの大きなものを目指していたと、私は考えています。ですから、大きなピアノがなくても、彼はそのような表現に到達していたと思います。エラールの新しいピアノを用いなくとも、彼は想像の世界で素晴らしい音楽を作り上げ、楽器という枠を完全に超え、より壮大な作品へと自ずと進んでいたでしょう」

《熱情》をめぐる中期の軌道

〈彗星 8つの軌道〉でエル=バシャが演奏するプログラムには、後期のピアノ・ソナタは含まれない。ヘ短調の第1番に始まり、ヘ短調の第23番「熱情」で終わるプログラムに、第18番、第24番、第25番のピアノ・ソナタをはさむ。

第1番のピアノ・ソナタは、古典的なスタイルで書かれているが、若きベートーヴェンの創作における大胆な試みを見ることができる。古典派のソナタによくみられる3楽章構成ではなく、4楽章からなっており、交響曲を意識したベートーヴェンの意気込みがうかがえる。緊張感あふれる主題やハ音の強調など、このソナタはのちの第23番「熱情」の先駆けとなっている。

作品31の3曲のピアノ・ソナタは、ベートーヴェンがハイリゲンシュタットで二人の弟宛てに遺書を書いた1802年に書き上げられた。第18番には、彼の中期様式に入る前の新たな表現が試みられている。牧歌的な情趣が漂う第1楽章には、エコーの表現が取り入れられている。緩徐楽章がなく、第2楽章と第3楽章にはそれぞれスケルツォとメヌエットを配置。第4楽章はタランテラの様式だ。 プログラムを監修した堀朋平氏によると、「とくに後半は「柔と剛」(繊細な愛と革新的な猛進)がコントラストを利かせるまさに若きベートーヴェンの姿が活きたプログラム」と語る。

第24番と第25番のピアノ・ソナタは、第23番「熱情」の作曲から4年を経て、1809年に書かれた。ベートーヴェンは、第24番「テレーゼ」をブルンスヴィック伯爵家の長女テレーゼに捧げた。2楽章によるピアノ・ソナタで、歌曲をイメージさせる優美な第1楽章ののち、無窮動的な第2楽章が続く。また、3楽章構成の第25番について、彼は出版社への手紙のなかで「ソナチネ」と述べており、平易な作品を意図していた。

第23番「熱情」は、ベートーヴェンの中期様式の入口に位置する創作。エラール社から寄贈されたイギリス・アクションのピアノがフルに活かされている。第1楽章は、「運命の動機」を連想させるモティーフが印象的。また、提示部と展開部の間のリピート記号をなくし、展開部から再現部への移行も斬新だ。主題と3つの変奏からなる第2楽章ののち、音楽は途切れることなくドラマティックなフィナーレへと続く。

誇張なき音楽の力

エル=バシャは、「ベートーヴェンの音楽には、人生の指針が秘められています」と語っている。

「ベートーヴェンの作品は、彼のさまざまな思想を反映しています。その点について、私自身もとても共鳴できるところがあります。その一方で、ベートーヴェンの作品には、悲しいときにはその悲しみから救ってくれるような、良い意味でのエネルギーに満ちています。『私の音楽は人間を救うことができる』と彼は語ったと言われていますが、それは真実だと思います」

エル=バシャによると、パリではエクリチュール(書法)も勉強したそうだ。彼の精緻な読譜は、演奏における特色のひとつだが、それはエクリチュールのたまものである。彼の演奏には派手な演出はなく、作品を厳密にありのままの姿で私たちに伝えてくれる。エル=バシャのベートーヴェンは、禁欲的ですらある。そのストイックな演奏姿勢には、強い確信のようなものが漲る。

Message アブデル・ラーマン・エル=バシャ(ピアノ)

このプログラムは、まったく異なる調性を持つソナタを集めています。ベートーヴェンにとって、それぞれの調性は独自の音楽世界です。その調性から、特別な感情や表現が生まれます。

ソナタ第1番 ヘ短調 Op.2-1は、ベートーヴェンが公式に発表した最初のピアノ・ソナタです。ここですでに、ハイドンやモーツァルトとの違いが見られます。彼の苦悩に満ちた魂と、独特な個性が当時の音楽愛好家に示されています。有名なソナタ第23番『熱情(アパショナータ)』ソナタも同じヘ短調です。火山のような激しさで流れる曲ですが、第2楽章には祈りと高揚のひとときがあります。

第18番のソナタは変ホ長調です。これは交響曲『英雄』と同じ調性です。生きる喜びが情熱的に表現されています。

第24番のソナタは嬰ヘ長調です。ベートーヴェンには珍しい調性です。対照的な2つの楽章でできています。第1楽章は優しく穏やかに歌い、第2楽章は元気いっぱいの子供の遊びのようです。

第25番のソナタの本当のタイトルは『ソナチネ』です。ト長調の曲です。ピアノ協奏曲第4番のように、心の安らぎを感じさせる調性です。

ソナタ、交響曲、弦楽四重奏曲、あるいは協奏曲、そのどれであっても、ベートーヴェンの音楽は本質的に一つであり、その人間的なメッセージは音楽そのものを超越しています。それは信念の告白です。すなわち、普遍的な愛、人類の友愛、そして正義のため、抑圧に抗する闘いへの信念です。そうした精神的・哲学的・政治的な力が「音楽」となります。それは、一人の人間によって、すべての人々のために書かれた音楽なのです。

※ジュピター219号掲載記事(2026年7月15日発行)

プロフィール

Abdel Rahman El Bacha

アブデル・ラーマン・エル=バシャ

1958年ベイルート生まれ。10歳でアラウに将来を嘱望され、フランス、ソ連、イギリスの各国政府より奨学金の申し出を受け、1974年パリ国立高等音楽院に入学。ピアノ、室内楽、和声法、対位法の4科で首席卒業。 1978年(19歳)エリザベート王妃国際音楽コンクールにて審査員全員一致で優勝。併せて聴衆賞受賞。ミラーレからプロコフィエフのピアノ・ソロ作品集とベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集をリリース。1998年フランス政府よりフランス芸術文化勲章シュヴァリエを、2002年にはレバノン大統領より功労賞の最高位メダルを贈られた。2019年ベルギーのルーヴェン・カトリック大学から名誉博士号を授与された。フランスとレバノンの2つの国籍を持つ。

プロフィール

Kyoko Michishita

道下京子

桐朋学園大学音楽学部作曲理論学科(音楽学専攻)卒業、埼玉大学大学院文化科学研究科修士課程(日本アジア研究)修了。共著「ドイツ音楽の一段面〜プフィッツナーとジャズの時代」など。

関連公演情報
彗星 8つの軌道
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全曲シリーズ 2026-2027
Vol.2 アブデル・ラーマン・エル=バシャ(ピアノ)

【日時】
12/10 (木) 19:00

【曲目】
ピアノ・ソナタ
第1番 ヘ短調、第18番 変ホ長調《狩り》
第24番 嬰ヘ長調《テレーゼ》、第25番 ト長調
第23番 ヘ短調 《熱情》

【金額】
一般 ¥6,000 U‐30 ¥2,500 フレンズ ¥5,400

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関連公演情報
住友生命いずみホール
2026年度 主催公演メイン企画
走りだす、ベートーヴェン

【走り出すベートーヴェン】
・2027/1/16 (土) 山田和樹指揮「プロフェッション・シリーズVol.1」
・2027/2/10 (水)「ゲヴァントハウス弦楽四重奏団」

【彗星 8つの軌道 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全曲シリーズ 2026-2027】
・2027/1/26 (火)「Vol.3 ソン・ミンス」
・2027年5月 「Vol.4 北村朋幹」
・2027年6月 「Vol.5 小菅 優」
・2027年9月 「Vol.6 レミ・ジュニエ」
・2027年10月 「Vol.7 小山実稚恵」
・2027年11月 「Vol.8 ゲルハルト・オピッツ」

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