ベートーヴェンが残した「火」を求めて 韓国の至宝 ソン・ミンス(ピアノ)
2026.10.02 インタビュー
韓国生まれの名手で、現在アメリカを拠点に活躍するソン・ミンス。2022年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールにわずか18歳で優勝したイム・ユンチャンを育てた恩師としても知られ、2025年1月にようやく初来日、これまで東京や横浜などで協奏曲と室内楽の舞台に立ってきた。そんな彼が2027年の1月、住友生命いずみホールの「彗星8つの軌道 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全曲シリーズVol.3」に登場し、ついに日本でリサイタルを行う。
ベートーヴェンを探求し続けるピアニスト
すでに自身でもベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会を経験しており、べートーヴェン弾きとしても名高い。その音楽は、余計な飾り気がなく、まっすぐで深く、心に直接語りかけてくる。対面して話を聞くと、それは、このピアニストが誠心誠意作曲家に向き合い続ける姿勢が、音楽に自然と反映されているために実現しているのだとわかる。
彼は、ベートーヴェンという作曲家に向き合ううえで感じることを、こう語った。
「私はベートーヴェンが人類に何を残したのかを探る旅に、長らく身を投じています。でも、この偉人を完全に理解することはほとんど不可能です。
ベートーヴェンの作品には、暗闇と光の対比、さまざまな化学反応が見られます。強い緊張感が漂っても、そこから解き放たれるための美しい方法がやがて必ず示されます。
そして彼が残した筆跡を見ると、どれだけ多くの段階を経て作品が出来上がったのかがわかります。意味のない音符は1つもありません。演奏者の役割は、その1つ1つの意味を見つけ出し、どの音符も軽んじることなく、責任をもって取り組むことです。彼が与えてくれた贈り物を受け入れる覚悟のある人だけが、旅を始めるべきだと私は思っています」

ⓒShin-joong Kim_MOC
プロメテウスの火と《ハンマークラヴィーア》
8名のピアニストが全ソナタを分担して取り上げるこのシリーズで、ソンは大曲の第29番 op.106《ハンマークラヴィーア》を演奏する。
「ベートーヴェンは内なる葛藤や困難を乗り越えた末、多くのものを私たちに残しました。人間の精神が生み出した奇跡です。中でも《ハンマークラヴィーア》はそのすばらしい例の1つ。作曲家が、自らの死後50年経っても演奏できる人は現れないだろうと予言した難曲でしたが、大切なのは演奏技術のようなフィジカルの要素を超えたところにある、作品にどんな意味を見出し表現するかという点です」
彼が18歳で留学したアメリカのニューイングランド音楽院で師事し、多大な影響を受けたラッセル・シャーマンも、ベートーヴェンの優れた解釈者として知られていた。
「先生がある時、私の《ハンマークラヴィーア》の楽譜の最初のページに、〝プロメテウス〞と書き込みました。プロメテウスは、火を人類にもたらした象徴ですから、華麗で精神に火をつけるようなこの冒頭部分は、確かにそのイメージにぴったりです。
ベートーヴェンはかつて観客の一人が感動して泣いているのを見て笑いながら、〝私の音楽はあなたの心に火をつけるためのものだ。泣かせるためのものではない〞と言ったそうです。これはまさに《ハンマークラヴィーア》にも言えることだと思います」
この大きなソナタにあわせて演奏するのは、「2つのやさしいソナタ」のひとつである第19番op.49–1と、軽やかさを持つ第16番op.31–1。
「べートーヴェンのソナタには、それぞれに小さな人生が詰まっています。例えば19番のソナタは、彼が自分だけのために書いた日記のようなもの。誰かのために書いたのではない、ほとんど裸のままのような作品だと感じます。そんな音楽に触れ、ベートーヴェンの存在の影を感じられるのは、とても光栄なことです。これによって私は音楽家やピアニストとして成長する大きなきっかけを得られるのです」
大きな建造物のような《ハンマークラヴィーア》とはまた違う作品で、ソンのいう、ベートーヴェンの「最高の音楽家であると同時に偉大な哲学者でもあり、シリアスさとともに気まぐれやユーモアを絶妙に融合させることができた」一面も、存分に確かめることができるだろう。

(C)Junichiro Matsuo
音楽を通して、どう生きるか
彼はインタビュー中、たびたび前述の恩師シャーマンの教えを紹介してくれた。師からは奏法や作品の解釈だけでなく、音楽家としてどう生きるかを学んだという。
「先生は音楽を人生の最終目的としているような人物でした。音楽を通じて生きる意味を見出していたと言えばいいでしょうか。彼が毎日をどのように過ごしていたかを見ることこそが、私にとっては最も大きな教訓でした。
演奏には、どんな人間であるかが現れます。時には真実を隠して演奏することもできるかもしれませんが、本当のことはいつか必ず明らかになるものだと私は思います。正直に生きることは、私たち音楽家が持つべき誇りであり、信条なのです」
楽聖の残したソナタを通じて、音楽の持つ力、そしてそれをそのままに伝えようとするピアニストのあるべき一つの姿を見ることができそうだ。
ジュピター220号掲載記事(2026年9月8日発行)
プロフィール
Minsoo Sohn
ソン・ミンス
『ニューヨーク・タイムズ』紙に「思慮深く詩的な解釈を備えた真の芸術家」と評されたソン・ミンスは、卓越した音楽的知性と高度な技巧を兼ね備えた韓国系アメリカ人ピアニスト。これまで、クリーヴランド管、ボストン響、イスラエル・フィル、東京フィル、ウィーン響、KBS響など世界有数のオーケストラ、ヤニック・ネゼ=セガン、ピエタリ・インキネン、サッシャ・ゲッツェルら著名な指揮者とも共演を重ねている。近年では、ピアニストのイム・ユンチャンとのデュオ・ツアーを韓国各地およびヴェルビエ音楽祭、グシュタード・メニューイン音楽祭などヨーロッパの主要音楽祭で展開。2025/26シーズンにはスロヴェニア・フィル、ウィーン響など共演。2026/27シーズンには、欧米・アジア各地でJ.S.バッハ《平均律クラヴィーア曲集》全曲演奏に取り組み、カーネギーホールにも出演を予定。ホーネンスおよびソニー・クラシカルから発表した録音も国際的に高く評価され、バッハ《ゴルトベルク変奏曲》は『ニューヨーク・タイムズ』紙の年間ベスト・レコーディングに選出。ベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集は、4年間にわたる探究の集大成となった。現在、ニューイングランド音楽院教授を務めている。
プロフィール
Haruka Kosaka
高坂はる香
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動。雑誌やCDブックレット、コンクール公式サイトやWeb媒体で記事を執筆。また、ポーランド、ロシア、アメリカなどで国際ピアノコンクールの現地取材を行い、ウェブサイトなどで現地レポートを配信している。
ピアノの惑星ジャーナル関連公演情報
- 彗星 8つの軌道
ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全曲シリーズ 2026-2027
【Vol.1】鈴木愛美 (公演終了)
7/23 (木) 19:00
第5番 ハ短調、第20番 ト長調《ソナチネ》
第4番 変ホ長調、第32番 ハ短調
【Vol.2】アブデル・ラーマン・エル=バシャ
12/10 (木) 19:00
第1番 ヘ短調、第18番 変ホ長調《狩り》
第24番 嬰ヘ長調《テレーゼ》、第25番 ト長調、第23番 ヘ短調 《熱情》
一般 ¥6,000 U‐30 ¥2,500 フレンズ ¥5,400
【Vol.3】ソン・ミンス
2027年1/26 (火) 19:00
第19番 ト短調《ソナチネ》、第16番 ト長調
第29番 変ロ長調《ハンマークラヴィーア》
一般 ¥5,000 U‐30 ¥2,000 フレンズ ¥4,500
助成:文化庁 後援:駐大阪韓国文化院
【Vol.4】北村朋幹
2027年5/14 (金)
(フォルテピアノ・ナネッテシュトライヒャー使用)
第7番 ニ長調、第17番 ニ短調《テンペスト》
第10番 ト長調、第30番 ホ長調
【Vol.5】小菅 優
2027年6/4 (金)
第13番 変ホ長調、第14番 嬰ハ短調《月光》
第22番 ヘ長調、第21番 ハ長調《ヴァルトシュタイン》
【Vol.6】レミ・ジュニエ
2027年9/9 (木)
第8番 ハ短調《悲愴》、第3番 ハ長調
第9番 ホ長調、第28番 イ長調
【Vol.7】小山実稚恵
2027年10/30 (土)
第2番 イ長調、第27番 ホ短調
第12番 変イ長調《葬送》、第31番 変イ長調
【Vol.8】ゲルハルト・オピッツ
2027年11月(調整中)
第15番 ニ長調《田園》、第6番 ヘ長調
第11番 変ロ長調、第26番 変ホ長調《告別》