素顔のメンデルスゾーン【第四回】楽譜出版と演奏会用序曲

素顔のメンデルスゾーン【第四回】楽譜出版と演奏会用序曲

2024.11.21 素顔のメンデルスゾーン 連載 小石かつら

メンデルスゾーンの作品といえば、誰もが口ずさめる「ヴァイオリン協奏曲」、「無言歌集」、「結婚行進曲」など名曲ぞろい。しかし作曲家が目指すべき作品といえば交響曲とオペラのはず・・・。ところが彼のオペラは、少年時代の習作や未完の作品しかない。交響曲も5曲しかない。その一方で、メンデルスゾーンが多く手がけたオーケストラ作品に「序曲」がある。「序曲」は、オペラ、劇作品、オラトリオなどの開始の音楽だが、メンデルスゾーンの場合、「真夏の夜の夢」、「フィンガルの洞窟」、「静かな海と楽しい航海」など独立した演奏会用の序曲が5曲ほどある。さらに「パウルス」などから序曲だけを取り出して演奏される作品を合わせると、10曲以上になる。

曲数が多いだけではない。演奏された回数をみても、彼の在任中、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で、交響曲は第2番が4回、第3番が5回演奏されただけだったのに対し、序曲は合計42回も演奏されている。42回という演奏回数は、協奏曲など他のオーケストラ作品に比べても圧倒的に多い。他の都市でも同じで、例えばロンドン・フィルハーモニー協会定期演奏会における同様の期間、交響曲が4曲、12回演奏されたのに対し、序曲は5曲、25回も演奏されている。でも何故「序曲」なのだろう。興味深い指摘として、シューマンの批評をひとつ。これは、当時「交響曲」の新作にすぐれた作品がなかなか無いことを憂いて書かれた一節である。

「ただメンデルスゾーンは創造的であると共に、思弁においてもすぐれた芸術家であるだけに、この道(交響曲)ではもう何も得られないとみてとって、新しい道に突進した。新しいといっても、もちろんベートーヴェンが偉大な《レオノーレ》序曲で準備してくれていたのであるが、とにかく、彼は交響曲の理念を、より小規模なものに圧縮して作った、演奏会用序曲によって、当代の器楽作家の第一人者となった。」

このシューマンの文章からは、当時すでに、作曲家が自分の独自性を示すことが求められていたことがわかる。もちろん、メンデルスゾーンの「芸術的関心」という絶対的な理由があったことは確かだ。けれども今回は、近代市民社会にあっては、音楽家も音楽作品も常に経済活動の中にあり、その中から作品がうみだされてきたという点に注目してみたい。

序曲《アンティゴネ》ピアノ編曲版の初版にある友人のユーリウス・ヒュープナーによる絵。当時も今も、楽譜にこのような美しい絵が付されることはめずらしいが、メンデルスゾーンは装丁や挿し絵にもこだわっていた。

序曲と近代市民の経済活動

私たちが現在親しんでいる「演奏会」。これはフランス革命を経た19世紀前半、「市民」の台頭と共に確立された。ラジオもレコードもなかった当時、演奏会で聴いた音楽を「再現」して楽しむためには、自分たちで弾くしか方法がなかった。そう、自宅には楽器と楽譜が必要だったのだ。現在に残る各出版社が楽譜印刷を本格的に始めたのは1800年ごろ。有名な例をあげれば、ボンのジムロック社が1793年、ライプツィヒのブライトコプフ&ヘルテル社が1795年頃、ペータース社が1800年、という具合だ。音楽演奏がもっぱら印刷楽譜によってなされる時代になれば、作曲家は出版することを前提に作品を書くようになる。出版されなければ世に出ないからだ。出版されるのは当然、「売れる作品」だった。

楽譜出版と同時に、音楽専門雑誌も刊行された。1798年にライプツィヒで創刊された『総合音楽新聞AMZ』は、ヨーロッパ全域に読者がいた。この雑誌の守備範囲は演奏会評をはじめ多岐にわたるが、継続的に大きな部分を占めていたのが新譜紹介欄である。書かれていたのは、新刊楽譜の作品名、作曲者、出版社、値段、楽器構成や楽譜の種類、コメント。どれだけ作品がすばらしくても、評判が立たなければ売れないし、評判は自然発生的には生まれない。仕掛けるのはメディアだ。実は『総合音楽新聞』は、楽譜出版の大手、ブライトコプフ&ヘルテル社の発行だった。自社で発売する楽譜を、自社で発行する雑誌で宣伝するという、現代的な経営戦略に脱帽。

では、新譜紹介欄で「序曲」はどのように取り扱われていたのだろう。同欄のオーケストラ作品コーナーで、創刊の1798年からの50年間で紹介されたのは、交響曲は延べ65曲、序曲が84曲。序曲の方が多い。そして値段は、作品にもよるものの、交響曲は序曲の約2倍。この状況において、メンデルスゾーンはどのようにふるまっていたのだろうか。

メンデルスゾーンは1835年に序曲を3曲まとめ、「演奏会用序曲」として出版する。その準備の過程で、ブライトコプフ社に宛てて、彼は次のような手紙を書いている。「(それは)ベートーヴェンの交響曲のようにあまりに長過ぎるものにはならないでしょうし、値段もかなり安くおさえられるのではないでしょうか」。言うまでもなく、彼は販売価格を気にしていたのである。

実際に発売された際の新譜紹介欄に記載された初版の価格は、「真夏の夜の夢」2ターラー、「ヘブリディーズ諸島」1と1/3ターラー、「静かな海と楽しい航海」1と2/3ターラー。3曲合わせた値段は4ターラー(単品で買うより安い!)。それに対してベートーヴェンの交響曲は、一番近い時期である1837年に報告されている第8番で、5ターラー8グロッシェンである(1821年の資料で1ターラーは30グロッシェン)。これは、序曲3曲分よりも高い。この場合、3曲セットなので曲の長さはほぼ同程度と考えて差し支えないだろう。

さて、気になるのはこの価格がどの程度だったかだ。当時は通貨単位や換算レートが頻繁に変動した上、地域によっても大幅に異なっていたので、給料や生活費の比較は難しい。が、鉄道運賃と演奏会の入場料の情報は正確だと思われる。メンデルスゾーンのゲヴァントハウス管弦楽団の給料は年間1000ターラー。試みに1ターラーを1万円として読み替えればリアルに実感できる。ライプツィヒからベルリンまで、距離はおよそ大阪から名古屋くらい。それが、馬車だと7万円もしたのに鉄道の開通で最低2万円程になった。演奏会はだいたい1〜2万円。別の文化圏まで旅行するのと、演奏会に行くのが同程度【表1】。

でもちょっと高いと感じるのは私だけだろうか?そこに出てくるのが、序曲のピアノ編曲版楽譜だ。家庭で楽しむために、最もよく売れた媒体である。総譜と編曲版が同時掲載された場合のみを抜粋したものが【表2】である。編曲版楽譜の安さが際立っているのがわかるだろう。印刷にあたってのページ数や、家庭で楽しむ際の演奏時間、購入価格。そういった需要に合わせて、「序曲」というジャンルが考案されたのだとしたら、メンデルスゾーンの商才も透けて見えてくる。

ジュピター208号掲載記事(2024年9月11日発行)

プロフィール

音楽学

小石かつら

京都市立芸術大学大学院でピアノ、ライプツィヒ大学、ベルリン工科大学、大阪大学大学院で音楽学を学ぶ。博士(文学)。共訳書に『ギャンブラー・モーツァルト』(春秋社)など。現在、関西学院大学文学部教授。